大河原が学生時代を過ごした当時の米国には、今日と異なり学業の世界にも有形無形の差別が存在した。15歳までハワイで生活した後、1年間、日本のアメリカンスクールで日本語を学んだ大河原はノースウエスタン大学に入学、ここぞとばかりに学内の古臭い差別的な制度に立ち向かっていく。その姿は大河原のもって生まれたリーダーの素質の片鱗を見せるまたとない機会となった。事の顛末は次のようなものだった。
大河原が大学に入学して初めて体験したことがある。
「大学はクラブ活動が盛んでして、キャンパスの中に家がありましてクラブのメンバーが一緒に暮らすこともできるんです。クラブは女性用と男性用がそれぞれ十いくつありました。私もクラブに入りたくてぜひ入れて欲しいと繰り返しトライしたのですが、最終的には断られました。当時、クラブのルールとして東洋人はメンバーになれなかったんですね」
負けず嫌いの大河原がそのまま引き下がるはずもなかった。
「とても悔しくて、何とかこういうしきたりを変えなくてはいけないと思いました。そこで、大学での政治活動に目を向けました。学年単位(2,000人規模)の生徒会の副会長選に立候補し、当選しました。その時に会長候補としてパートナーを組み、一緒に選挙戦を戦った男子学生は後に有名な政治家になりました」
大河原の言う著名な政治家とは25年ほど前、日米貿易摩擦で対日強硬派として勇名をはせ、大統領候補にもなったディック・ゲッパード民主党下院院内総務のこと。
米国での貴重な大学生活を体験した大河原だったが、大河原の学問に対するチャレンジ精神はこれで終わることはなかった。スイスのジュネーブ大学法学部への留学に舵が切られていく。しかも、フランス語で授業を受けラテン語でローマ法を学んだ。
「最初は経済学部の予定だったのですが、ジュネーブ大学で一番レベルの高い学部は法学部だと知って、『よし、チャレンジしよう』という気になったんです。しかし、先生からは『法学部はフランス人やスイス人でさえ入学するのが難しく、入学しても挫折する学生の多い学部です。ましてフランス語が完璧ではない貴方には無理です』と忠告されたんです。無理と言われると負けじ魂に火のつく性分ですので、周囲の反対を押し切って法学部に入り、国際法を学びました」
そこまで苦労を重ねて学んだ法律だが、大学を卒業して両親の待つ日本で生活することになり、大河原はあっさりと弁護士の夢をかなぐり捨ててしまう。事業家なる夢が次なるチャレンジ目標として大河原の心を射止めたのである。(敬称略)