社長交代後も実権は会長になった父親が握ったままだったが、経営状態が悪化の一途をたどるなか、かねてより付き合いのあった税理士が親子の間に入る形で父親を説得。ようやく父親は経営の一線から退くことになった。「野球にたとえれば、チームがピンチを迎えるなか9回裏までベンチで待たされていた格好なので、実権を持てた時は不安などなく、『やっとプレーできる』という楽しみの方が大きかった」と話す所社長は改革に着手した。
まずは社内の現状把握に取り掛かった。すると様々な問題点が明るみに出た。作業の手順書やマニュアルはなく、「見て覚えろ」という昭和の職人気質だった。工場内の2S(整理・整頓)も行われておらず、一度使った工具は元に戻さず置きっぱなしで、倉庫内は商品づくりの原料と工具などがいっしょくたという状態。製造部副本部長兼第5工場長の井戸久司氏は「足の踏み場もない。どこに何があるかわからない。目的の物を探すだけで相当の時間を費やしていた」と振り返る。
なかでも大きな問題が残業だった。季節で売り上げが大きく変動する商品を扱っている同社では繁忙期と閑散期があるにもかかわらず、社員の残業時間は年間ほぼ一定。残業ありきの給与水準を維持しようとする一部の幹部社員が残業時間をコントロールしていたのだ。管理部本部長兼品質管理部長の長谷川芳紀氏は「当時の工場長から『お前の残業時間は月80~100時間だよ』と言われた」という。自分だけ残業時間が多いと目立つので、他の社員にも長時間の残業を一方的に押し付けていたとみられる。製造部本部長兼第4工場長の岩田健二氏も「上司からは『長い残業が当たり前』と言われた。食品メーカーでお盆や正月の休みも十分にないなか、これが普通なのか、とずっと疑問に思っていた」と話す。