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カリスマ経営から組織型経営へ 事業承継のリアル「フレッグ食品工業株式会社」

2024年 5月 7日

斎藤社長(前列左)、斎藤専務(同右)とプロジェクトメンバー
斎藤社長(前列左)、斎藤専務(同右)とプロジェクトメンバー

中小企業は株式も経営の執行もすべてを社長が握っていることが多い。社長に圧倒的な権力が集中している。だからこそ、社長の経営手腕が企業の盛衰を左右することになる。戦後から高度経済成長期に創業した企業の多くが2代目、3代目への世代交代期にさしかかっている。社長が高齢化しているのに後継者がみつからない企業もたくさんある。福井県永平寺町で食品製造を手掛けるフレッグ食品工業株式会社(福井県吉田郡永平寺町)には、幸い社長の長男という立派な後継者がいる。2代目から3代目への事業承継をいかにスムーズに進めるか。同社が見出したのは、カリスマによる経営から組織型経営体制への転換だった。

卵加工食品に強み

フレッグ食品工業は卵の加工食品に強みを持つ。本社工場で製造するカップ入り茶碗蒸しは、大手コンビニチェーン向けOEM商品としてコンビニ店舗に並び、消費者に提供されている。有名料亭のブランド名で販売される茶碗蒸しの中にも同社が製造しているものがある。卵液に出汁を加えた茶碗蒸しの素は、全国の寿司店で供される茶碗蒸しの材料としてなくてはならない存在になっている。茶碗蒸しの製造技術を応用した牛乳寒天や水ようかんも製造している。また、全国各地の駅弁メーカーを集めた駅弁フェアを百貨店やスーパーの催事として行う事業や、バーベキュー場の経営など、食品製造にとどまらない事業を手広く展開している。これら、同社の事業のすべてを考案し、展開してきたのが斎藤眞理夫社長だ。

玉子豆腐で家内工業を工場生産に

同社は1950年に斎藤社長の父が「斎藤訒(しのぶ)商店」として創業した。当時は卵の卸業とコロッケや玉子焼きの製造販売を家族経営で行っていた。「父は真夜中に起きて玉子焼きを作るなど一生懸命働いていたが、こんな商売のやり方では跡を継ぎたくないなと思っていた」。斎藤社長は父親が苦労する背中を見ながらも、商売のやり方には疑問を持っていたという。大学を卒業してからでは遅いと思い、高校卒業後すぐに家業に入った。ちょうど近隣で玉子豆腐を作って成功する食品会社があった。斎藤社長(当時は専務)は「これだ!」と思い、独自に玉子豆腐づくりに乗り出した。京都の市場に売り込みに行くと熱心さが買われ、取引が始まった。福井の工場で玉子豆腐を作ってはトラックを自ら運転して毎日京都まで運んだ。「畳の上では寝られないような多忙な生活。父親が夜中に玉子焼きをつくるのを見ていたのに、自分も同じことをやっていた」と笑う。当時まだ珍しかった樹脂を成形して容器にするブロー容器に玉子豆腐を充填したものは重宝がられ、スーパーや生協などに販路を拡げていった。生産も従業員を雇用して工場で行うものに規模を拡大、1993年には現在の本社工場を新築し移転した。

いち早く衛生管理体制を構築

衛生管理は徹底している
衛生管理は徹底している

食品の衛生管理に厳しい目が向けられるようになってきたことを踏まえ、同社は品質マネジメントシステムに関する国際規格「ISO9001」を2002年に取得。さらに原材料の入荷から製品の出荷に至る全工程で製品の安全性を管理する手法「HACCP」の福井県版も2006年に取得した。当時福井の食品メーカーでもここまでの衛生管理に取り組む企業は珍しかったという。

一方で、玉子豆腐市場そのものは価格競争で大荒れとなり、経営ぎりぎりの安値合戦でライバル社の倒産が相次いだ。同社の経営も赤字に転落した。無借金経営を誇っていた同社も売上高に近い借入金を抱える事態に。斎藤社長は「玉子豆腐だけではだめだ、もっと幅広い食品に対応できる『料理工場』にならないと」と事業の見直しに動いた。同時に大学を卒業して大手食品メーカーの営業職として働いていた長男の督文氏を呼び戻した。「会社が一番苦しい時代を見せておきたい」という親心からだった。

OEM生産の受託拡大へ

本社工場での茶碗蒸し生産
本社工場での茶碗蒸し生産

「料理工場」を目指し、冷凍総菜をつくって高齢者向けに提供したり、大手量販店からの依頼でソースを作ったりと、新しいことに次々と挑戦していった。設備は懇意にしていた食品機械卸から倒産した食品企業の中古機械を調達した。「会社を畳んだ経営者の気持ちも引き継いでいきたい」という思いだったという。チルド製品や冷凍食品まで手掛けるようになったことで「フレッグに言ったら何かやってくれるのではないか」と業界でも評判を呼び、ある時大手コンビニチェーンから「牛乳寒天を作ってほしい」と声がかかった。厳しい時代にも衛生管理に取り組んできたことが活かされたのだ。その後茶碗蒸しや総菜へとOEM生産品目を拡大していった。「あのコンビニと取引があるなら安心だ」と、さらに別の企業からも声がかかるようになった。気が付けば同社の工場でつくる製品の大半はOEMが占めるようになっていた。

OEM生産が主力に
OEM生産が主力に

同社の事業は、駅弁を仕入れて全国の百貨店やスーパーで駅弁フェアを開催する催事プロデュース事業が売り上げ全体の約半分を占める最大の事業分野だが、利益率は低い状態にとどまっている。一方の食品メーカーとしての大手向けOEM事業は安定していた。しかし、斎藤社長は決して満足していなかった。「大手から与えられたレシピで作っているだけ。このままでは、社員の創造する力が失われてしまう」。若い時から自分で考えて、自分で作り、自分で売ってきた斎藤社長から見れば、今の事業の在りようは不安でしかなかった。「このまま自分がいなくなって、万一コンビニとの取引がなくなればどうなるのか」。ちょうど原材料の卵が高騰するなど採算面で大きな課題も浮上した。価格転嫁をしたくてもコンビニ側はなかなか首を縦にふってくれない。OEM依存の課題も顕在化していた。斎藤社長は専務に据えた息子、督文氏を経営者として育て上げるためにも、新しい挑戦に踏み出す時だと判断した。そしてその手助けをする役割を中小機構に託した。

自社ブランド開発へプロジェクトチーム発足

フレッグ真理図を説明する斎藤社長
フレッグ真理図を説明する斎藤社長

まず、中小機構のさまざまな支援メニューの中から、中小企業版BCP「事業継続力強化計画」の策定支援を選択した。斎藤専務を会社側の担当として指名、機構側の専門家とキャッチボールで計画を仕上げていった。当時はちょうどコロナ禍の最中。オンラインを介してのやりとりだったが、斎藤専務が自律的に動いて完成させた。そして、次に取り組んだのが、後継者の育成を視野に入れたハンズオン支援の専門家継続派遣事業だった。社長が課した課題は「自社製品を開発せよ」だった。OEM依存体質から脱却するために、自分たちで一から開発、製品化、市場開拓に取り組んでほしいという思いが込められていた。社長は口出ししないのが条件。斎藤専務をリーダーに、サブリーダーに第1商品部部長の布川洋平氏と主任の酒井浩史氏、第2商品部部長の山本好之氏と課長の高田恭明氏、開発担当者として生産部主任の辻陽子氏と、同社の将来を担う幹部層6人によるプロジェクトチーム体制が結成された。

ところが、「自社製品を開発するぞ」と言ったものの、動きは鈍かった。そもそもこれまで製品開発も販路開拓も全部斎藤社長がやっていた。それに慣れ切った社員にとって、何から手を付けていいのか全く分からなかったのだ。中小機構北陸本部でシニアアドバイザーとして活躍する金瀬栄義氏は「商品開発の王道はまずマーケティングからだが、この会社の場合それよりもまず経験をすることが重要だ」とし、具体的な商品開発を進めることを提案した。しかし、商品開発会議を開催してもなかなか具体的なアイデアは出てこず停滞期間が続いた。

しびれを切らしたのは斎藤社長だった。メンバーを集め斎藤社長が同社の経営の指針として作成した「フレッググループ真理図」を見せながら、なぜ今このプロジェクトをやらなければならないのかを懇々と説いた。真理図には「利他主義の心で善悪を判断する」と記され、さらに同社の事業や取引先、さらには産業全体の構造や企業を取り巻くリスクなどが円の中に細かく示されている。社員にとって見慣れたものだが、斎藤社長から改めて説明を聞く中で、徐々にではあるが、「会社を変えていかなければならない」や、「いつまでも社長に頼っているわけにはいかない」という気持ちが芽生えてきた。

苦労続きの自社製品開発

苦労の末に開発したカレー
苦労の末に開発したカレー

自社ブランド商品の第一弾はレトルトカレーと水ようかんにするという方針がようやく決まった。カレーの開発を任された辻主任の苦労が始まったのはここからだ。同社はかつてOEMでレトルトカレーを生産した経験はあった。辻主任もさまざまなカレーを試作してはみるのだが、なかなか「これ!」というものが決まらない。そもそも、想定ターゲットや開発計画が曖昧だった。価格設定についても明確な方針はなかった。そんな中で次々と試作を作っても「なんか違うよね。この前の方がよかった」などと言われ、辻主任の徒労感を増すばかりだった。誰かが決めなければ前に進めない。結局ここでも決断したのは、斎藤社長だった。「本ずわい蟹」「純鶏」「焼き鯖」と、地元福井の名物にちなんだものを採用した。同時並行で進めていたパッケージづくりもとん挫しかける中、なんとか完成にこぎつけた。辻主任はこの経験を踏まえて、「目標やスケジュールを設定することの重要さを学べた。ともかく製品に仕上げることに必死で、生産工程についても意識していなかったことは反省点だが、次からは『やらされている』のではなく、『自分からやる』という気持ちになった」と意欲的に語る。今後営業担当者が近隣の道の駅にカレーの売り込みに行くのに同行する予定だ。現場の生の声を聴いて今後の開発にいかそうと考えている。

社長は口出ししないという当初の方針を貫けなかったことを、プロジェクトリーダーを任された斎藤専務はどう思っていたのか。「正直、まだ社長の顔色を見てしまっていた。社長は常に『結果責任は私が取る』と言って事業を進めてきたが、私にはそこまでの覚悟がなかった。社長の口出しがなければ製品化は間に合わなかったと思う。パッケージの決定についても、『担当者がやってくれているだろう』と思うだけで確認をしていなかった。そこを詰めることができなかったのは、私自身社員に気を遣う気持ちがあったからだと思う」。リーダーとして進捗管理ができなかったことを素直に反省した。

一方水ようかんの商品化では、コンセプトの設定で二転三転した。水ようかんはコンビニ向けのOEMで日常的に生産しており、レシピもあった。ただ、同じものを作っても意味はない。どう差別化するのか。プロジェクトメンバーの山本部長は「最初は既存のレシピを活かしつつ、外国産の原料を使い、価格を抑えておいしいものを作ろうと考えていた。でも、途中から単価を上げても福井の水ようかんらしく、さっぱりと食べられておいしいものにしようと方向転換した。黒糖とあんこで仕上げた新商品にすべくレシピも一から組み立て直した」。また、普段工場では常温で90日の日持ちを前提とした水ようかんを製造しているが、新商品では福井の水ようかんらしさを出すためチルド製品にしたいと考えた。そうすると賞味期限が短くなってしまうが、工場にレトルト殺菌装置があることが、長期保存を可能にした。スーパーのバイヤーからも「通常の水ようかんなら250円程度が限度だが、これは450円でいける」と太鼓判を押してもらえた。山本部長は「安くするといいものは作れない。適正価格でおいしいものを作る必要性を再認識した」と振り返る。

製品開発第2段階へ

専門家派遣事業はこれから第2段階に入る。第1段階は、とにかく自社製品を開発してみようという姿勢で進めたが、今後は事業として本格的に成り立つものを開発することを目指している。プロジェクトメンバーも、これまでの経験を踏まえて「次に進みたい」と前向きな姿勢へと変わってきた。今回はマーケティング調査を前提に開発計画を進めていく。いくつか候補も上がっている。食物繊維が豊富な寒天デザートにオリゴ糖や乳酸菌などの腸内環境改善に有効な成分を入れた朝食用のヨーグルト寒天の提供を考えている。もう一つは、玉子加工品の開発だ。蓄積してきた卵の加工技術やノウハウを活かして、例えば、フレンチトーストやキッシュなどの卵をメーン材料にする商品開発を進めることを検討している。試行錯誤のうえに原点回帰を果たしたとも言える。

後継者としての意識改革

後継者としての意識改革が進んだと語る斎藤専務
後継者としての意識改革が進んだと語る斎藤専務

ハンズオン支援専門家継続派遣事業は、自社商品の開発が表向きのテーマであるものの、その裏にある「後継者の育成」「組織型経営体制への転換」こそが本質的な目的だった。ある社員は「専務が苦労する姿を間近で見てきた。そこから専務を支えていこうという意識がうまれてきた」と語る。また、「社長の知識の量はすごいが、正直専務の方が相談しやすい。仕事を進めやすい面もある」と社長とは違う視点で専務を評価している声も聞かれた。

斎藤専務自身も徐々に覚悟を固めている。「プロジェクトを通じて商品開発力がまだまだ足りないことを痛感した。ここを改善するべく、自社商品の開発を進めていきたい。同時にIT化の遅れも致命的になっている。受発注の自動化や、工場の省力化・自動化にも取り組まないといけない。情報の共有も進めてデータを連携させていきたい」。商品開発や営業では社長の力を認めるものの、IT化は自身が先頭に立って取り組むという自信が垣間見られた。

金瀬シニアアドバイザーは「プロジェクトリーダーにマネジメントの経験を積んでいただき、事業承継につなげることを狙いに支援を行った。進捗管理の重要性に気づき自ら行動するなど、変化が見られた。支援の最終報告会で、社長より『プロジェクトメンバーに積極性がでてきた』とのコメントがあり、さらなる変化を期待している」と語る。

斎藤社長は数年後に社長交代すると決めている。そして「これからは口出しする機会をできるだけ減らしていく」と自らを戒めている。当面の目標は「5年後に自社ブランド製品の割合を20~30%に高める」。社長がなんでも決めてきた会社がこれから、どう変わっていくのか、専務のリーダーとしての自覚とそれを支える社員の力が試されている。

企業データ

企業名
フレッグ食品工業株式会社
Webサイト
設立
1950年5月
資本金
7800万円
従業員数
22名
代表者
斎藤眞理夫 氏
所在地
福井県吉田郡永平寺町諏訪間65-1-1
事業内容
食品製造販売業・卸売業