始まりは大阪万博だった
世界に美の価値を知らしめた中小企業の心意気【タカラベルモント株式会社(大阪市中央区)】
2023年 11月 27日
1970年の大阪万博は日本が戦後の混乱から立ち直り、高度経済成長とともに新しい時代に入っていくことを世界に示す場。国の威信をかけて取り組む国家プロジェクトであり、参加する企業も三井や三菱といった財閥グループや、日立製作所や松下電器産業(現パナソニック)など日本を代表する企業が競い合った。そんな中で、中小企業が独自のパビリオンを建設するという偉業を成し遂げたのが、タカラベルモント株式会社の「タカラ・ビューティリオン」だった。設計に建築家黒川紀章氏、コンパニオンのユニホームにはデザイナーのコシノジュンコ氏を起用するなど、新進気鋭の若きクリエイターに活躍の場を与えた。そして、何よりも全国の理容師・美容師に自分たちの仕事に対する誇りをもたらした。
戦後まもなく米国に進出
タカラベルモントは1921年に吉川秀信氏が大阪の鋳物工場として創業した。1930年には米国製のリクライニング機能のある理容椅子に着目し、製造を始めた。戦後の気配がまだまだ残る1955年に米シアトルで開催された国際貿易見本市で同社の理容椅子24台を試しに展示したところ、完売した。「海外でも売れる」と確信した秀信氏は、1956年にニューヨークに現地法人を設立した。これは日本のメーカーでは、ニコン、ブラザー工業、味の素に次いで4番目の進出。中小企業が米国に進出することなど皆無の時代に、いち早く行動した秀信氏の進取の気性は、同社を世界トップの理美容椅子メーカーへと成長させる礎となった。
ただ、海外事業は苦難の連続でもあった。当時米国の理美容椅子市場は、2社の現地メーカーが市場を二分していた。同社が現地に進出して驚いたのは、国土の広さだった。発売当初は安さを武器に売りまくった。しかし、品質が追いつかず、故障もよく起こった。故障が発生しても簡単には修理に行けない。そこで同社は技術力を高めて故障が起こりにくい椅子づくりにまい進した。さらに、顧客の要望を丁寧に聴き、それを日本にフィードバックし、改良を重ねた。こうした努力の末に市場シェアを拡大していった。次に待ち受けていたのは、米国メーカーからの貿易摩擦との批判だった。同社は証拠をそろえて反証に努め、同社の主張を受け入れさせた。その後、対立していた現地メーカーのうちの1社であるコーケン社を買収、別の1社は倒産した。結果として同社の米国における市場シェアは一時100%となった。また、パリやドイツなどにも進出。世界市場にそのブランドを浸透させていった。
身の丈に合わない万博参加表明
世界市場で戦う同社が、大阪万博への出展を決めたのも秀信氏の決断だった。当時万博参加を表明していたのは、名だたる大企業ばかり。秀信氏は「中小企業でもその気になればやれるのだ、というところを見せたかった。それに世界中からやって来る人たちに、タカラベルモントや理美容業界のことを知ってもらう機会になる」と考えた。同社の当時の売上高は99億円で経常利益は2億5000万円。これに対して万博の出展費用は2億5000万円(実際は4億円かかった)。全く身の丈に合わない参加表明だった。親交のあった松下電器産業創業者の松下幸之助氏や大阪府知事も本当に大丈夫なのかと心配していた。社内から「無謀だ」と反対の声が上がったが、業界のためにもなるからと秀信氏は押し切った。
若手クリエイターを起用
同社はパビリオン建設にあたり、若手のクリエイターを集結させた。黒川紀章氏やコシノジュンコ氏のほかにも、照明デザイナーの石井幹子氏、音楽家の一柳慧氏、グラフィックデザイナーの横尾忠則氏など、後世に大きな名を残す若者がパビリオンに携わった。パビリオンの名称である「タカラ・ビューティリオン」は、ビューティーとパビリオンを掛け合わせた造語。「美しく生きる喜び」をコンセプトとした。日本は機能が優先され、デザインは後回しにされることが多かった時代に、デザイン重視を打ち出した発想は斬新と受け止められた。なかでも黒川氏が模型で作ってきたパビリオンは、ジャングルジムのような構造体にカプセルを組み込むという画期的なデザイン。秀信氏は一目でそれを気に入り採用した。
どこよりも早く完成
秀信氏がこだわったのは、「どこよりも早く完成させる」ことだった。並みいる大企業が参加するだけに、メディアや国民の関心もそちらに向きがちになる。そのなかで注目されるには、一番でなければという思いだったという。黒川氏が設計した建物は地下1階、地上4階建てで、鋼管とステンレスカプセルの結合により構成されている。主構造には、鋼管と角に丸みをつけた正六面体のステンレスカプセルの結合によって構成されたユニットが用いられ、屋根、床、窓の部分もそれぞれパネル化されていた。これらは工場ですべて製作され、現場では7日間というスピードで組み立てられた。ユニット工法の先駆けともいえるものだ。もちろん完成一番乗りで、メディアも大きく取り上げた。当時の大臣や知事、市長もこぞって来訪するなど、PR効果は絶大だったという。展示は大きく分けて地下、地上、空中の3部門からできている。地下は劇場と広場で、観客はレーザー光線、音楽に包まれながら、天井の12個の球形スクリーンに映し出される映画を観賞した。地上1階は「楽しい生活フロア」、2階は「未来のおしゃれフロア」で、未来の生活や未来の美容室が表現された。3階は、回転ステージを備えたショーフロア、4階、貴賓室、レストサロン、キッチンユニット、バス、トイレユニット、化粧室ユニットなどが展示された。
万博が開幕すると、同社の「150万人来てもらえたら」という予想をはるかに上回る350万人が来場した。会場外でも全国の美容師が協力した100人の花嫁パレードなど、多くの話題を提供した。美を前面に打ち出した展示は大きな話題を呼んだ。同時に、理容師や美容師がパビリオンを見て、「自分たちの仕事が、人を幸せにする価値あるものなのだ」と自信を持って仕事に取り組めるようになったという声も寄せられた。また、カプセル型の建物を見たサウナ経営者が、後に黒川氏に依頼して箱型の宿泊施設を開業した。これがカプセルホテルの原型と言われている。同じく黒川氏が設計して東京・銀座に完成した「中銀カプセルタワービル」も住宅用のカプセルが140個取り付けられた近未来型の住居として評判を呼んだ。パビリオンは建築業界に大きなインパクトを与えることになった。
大阪・関西万博で未来のヘルスケアサロン
同社は2021年に創業100周年を迎えた。美とともに健康にも貢献する企業として、歯科・医療関連機器や化粧品、ヘアケア関連製品など、業容を拡大している。海外事業も12か国にグループ企業を持ち、120を超える国で理美容機器、プロ用化粧品、歯科機器、医療機器を販売している。また、本社近くに情報発信拠点「TB-SQUARE osaka」を開設し、最新機器の展示から理美容室経営のコンサルタントを行う拠点として活用している。
同社は2025年に開催する大阪・関西万博にも参加を表明している。吉川秀隆会長兼社長は「1970年の大阪万博出展は当社にとって大きなチャレンジだったが、創業者は『業界に貢献したい』『業界の方に夢を与えたい』ということで出展を決断した。私がTB-SQUAREの建設を決断したのも、『業界の皆さまの夢を叶えられる場を』と考えたからだ。私たちは、これからも美と健康の世界で活躍されるプロフェッショナルの方に役立つ製品やサービスを提供していきたいと考えており、大阪・関西万博の大阪ヘルスケアパビリオンに出展参加し『未来のヘルスケアサロン』を提案したい」と意気込んでいる。「いのち輝く未来社会のデザイン」という大阪・関西万博のテーマが、同社の手にかかるとどう表現されるのか。今から楽しみだ。
企業データ
- 企業名
- タカラベルモント株式会社
- Webサイト
- 設立
- 創業 1921年10月5日、設立 1951年7月1日
- 資本金
- 3億円
- 従業員数
- 1,604名(2023年3月31日現在)
- 代表者
- 吉川秀隆 氏
- 所在地
- 大阪市中央区東心斎橋2-1-1
- 事業内容
- 理美容椅子および関連機器等製造販売、頭髪化粧品基礎化粧品等製造販売、歯科用機器製造販売、医療用機器製造販売