「だめだ。とにかく帰ってきてくれ」。2011年3月11日、渡邉忍社長(当時は専務)は、中国工場立ち上げのため、中国山東省にいた。取引先からのメールで東北地方を大地震が襲ったことを知り、あわてて父である代表取締役(当時。現取締役会長)に電話をかけた。返ってきた言葉は、予想を上回る深刻なものだった。
急遽帰国し、本社工場がある福島県双葉郡大熊町にやっとの思いでたどり着いた。工場は部品が散乱し、建屋にも損傷が目立つ。ただ、高台にあったため、津波の被害は免れた。ところが、ほどなくして自治体から「福島第一原発で事故です。すぐに避難を」との呼びかけがあり、何も事情が分からないまま、自治体が手配したバスに乗り、各地に設置された臨時の避難所に連れてこられた。当時102人いた従業員はてんでんばらばらの避難を余儀なくされ、全員の安否を確認するのに1か月かかったという。
「再建はむずかしいな」。渡邉社長は心の中でそう思っていたが、連絡がとれた役員や社員は「何とか復興させましょう」と口々に言ってくれた。「やるしかない」そう決意してから奔走の日々が始まった。知人のつてを頼って居ぬきの工場を借りるなどして、5月の連休明けに操業を再開させた。大熊町は立ち入りが制限されていたが、事業継続に必要なら特別に認められた。ただ、本来なら重量のある装置は専門業者に頼むのだが、だれも引き受けてくれない。自分たちでトラックを用意し、持ち出すしかなかった。限られた時間で仕掛品や部品、生産設備、書類をできるかぎり運び出した。