始まりは大阪万博だった
大型膜構造物で世界市場に飛躍【太陽工業株式会社(大阪市淀川区)】
2023年 9月 4日
「人類の進歩と調和」をテーマとして1970年に開催された大阪万博。建築分野においても、さまざまな挑戦が行われた。その中で異彩を放ったのが、色とりどりの膜面構造の仮設建築物。万博に出展するパビリオンは、短い工期で建設し、会期中は多数の来場者に耐える堅牢性を保ちつつ、終了後は跡形もなく撤収させなくてはならない。軽量の膜を空気で支える構造は、万博で建築物に求められる特性に合ったものだった。そして、この膜面構造の仮設建築物の実に90%を施工したのが太陽工業株式会社だった。万博での成功は建築業界に大きな影響を及ぼし、膜面構造は建設の一分野としての地位を確かなものとした。太陽工業はその後も主要な万博会場を施工し、東京ドームや米国デンバー空港なども手掛けるなど「大型膜構造物なら太陽工業」と世界的に知られる存在となっていった。
ミシン一台、はさみ一丁からの創業
同社は1922(大正11)年 能村テント商会として能村金茂が創業した。ただ、戦時下の企業整備法により廃業を強いられた。そして戦後間もない1946(昭和21)年に金茂の息子の能村龍太郎が大阪市大正区三軒家に太陽工業株式会社を創立し、再スタートを切ったのが実質的な同社の創業となる。ミシン一台、はさみ一丁で始めた事業は、当初リュックサックづくりが中心だった。戦後の物のない時代、丈夫なリュックサックは買い出し用としてつくればつくるほど売れたという。次いで取り組んだのが、当時日本に駐留していた米軍から依頼されたハッチカバー製造だった。丁寧な仕事ぶりで米軍から信頼を得た同社は、その後も軍用テントやカーテンの補修などを次々と仕事を獲得していった。そして朝鮮戦争が勃発し、同社への補修依頼は劇的に拡大した。三軒家の借家から始まった同社は同じ大正区に工場用地を取得して工場を建設、需要急増に対応する体制をいち早く整えた。戦後の混乱期に同社と同じようにミシンとはさみだけで創業した企業は多数いたが、どんなに困難でも納期を確実に守り品質を維持した仕事ぶりで信頼を得、さらにここぞという時に、大胆な投資に踏み出す先見性を持つ経営者は稀であった。同社の事業規模は朝鮮特需前と比べて15倍と大きく成長した。
世の中が「もはや戦後ではない」と言われる時代となり、高度経済成長期に入る中で、同社の事業も、軍需から民需へと転換がはかられた。米軍から大量に持ち込まれた軍用テントは、朝鮮戦争終結で無用となったが、同社はそれをダム工事の現場宿舎用など、さまざまなものに転用させた。舶用ハッチバックも船舶需要の拡大によってアイテムを拡大、さらにダイハツ工業が売り出したオート三輪車「ミゼット」の運転台を覆う幌を受注するなど、着実に事業を拡げていった。自動車業界からの受注は、同社の事業の大きな柱となっていった。創業当時「日本一のテント屋になる」と掲げた同社の目標はこのころ「世界一のテント屋になる」と修正することになる。
大型膜構造物への挑戦
日本を代表するテントメーカーとなった同社が次に挑んだのが、大型膜構造物を利用した建築市場への参入だった。昭和40年に東京・千住に登場した東京スタジアム・アイススケート場は、2000平方メートルを1枚の大型テントで覆うという画期的なものだった。当時の日本でこれだけ大きな膜構造物はなく、施工した同社にとっても初めて取り組む難工事で失敗も経験した。その後もサスペンション膜構造による狐ケ崎ヤングランドや合歓の里の大型野外音楽ステージなど、次々と大型膜を使った構造物に取り組み、ノウハウを獲得していった。
万博でエアビーム、エアドームの2つの新技術を実践
大型膜構造物を手掛けるうえで集大成となったのが、1970年の大阪万博だった。万博は国の威信をかけて取り組む国家プロジェクト。そこに同社は二種類の技術で挑んだ。一つは空気を柱にする「エアビーム」方式。もう一つは空間を空気で支える「エアドーム」方式だ。
鮮やかなオレンジ色のグラデーションが印象に残る富士グループのパビリオンは、直径4メートル、長さ78メートルのエアビーム16本を横に連結し、それに圧搾空気を送り込んだもの。エアビームがつながりあって、壁や屋根を形成しており内部には1本の柱もなかった。この姿は当時大きな話題となったが、製造過程は苦労の連続だった。生地の厚みは空気圧に耐えるよう通常の膜の4~5倍あり、既成の針は通らない。さらにミシンで縫おうにも、重すぎて布を動かすことができない。同社は厚みに耐えられる針を独自に開発するとともに、工場の床に穴を掘ってそこをミシンが自走して縫い上げる方式を考えだした。こうした苦労の末に16本のエアビームを作り上げた。
一方、「月の石」で大盛況だったアメリカ館は、1万平方メートルのパビリオンを1枚の布で覆い、空気を注入して支えるエアドーム方式を採用した。同社の工場で生産した膜は長さ142メートル、横幅83・5メートルととてつもなく大きい。工場から運び出す時には畳むのに丸3日かかったという。
同社の能村祐己社長は当時のことを父で前社長の能村光太郎氏から「工場で大変な思いをして作った膜を、今度は万博会場で風の吹かない深夜や早朝に建てる作業が連日続いた。その間社員は誰も帰らず、現地でテントを布団替わりにして寝ていた。国家的プロジェクトに関わる重圧は相当なもので、それだけにやり切った時の達成感は格別だった」と聞かされてきたという。
同社はこの他にも多数のパビリオンの建設に関わり、膜構造物関連の9割を受注し成功させた。
膜構造物を建築物に
大阪万博での大型膜構造物の採用は、世界に周知されることになった。膜構造の良さは、軽量で曲面的なデザインができること。さらに光を採り入れられるので、省エネにもなる。やわらかい感触があり、鉄やコンクリートより人にやさしい空間づくりが演出できるなどだ。実際に万博で大きな施設にも耐えられることが実証されたことから、膜構造物を建築物に使うことが世界的にブームとなった。米国で野球場の屋根に膜構造が初めて用いられたり、空港施設に採用されたりするなど、建築の1分野として確立されるようになった。
日本において膜構造物を仮設だけでなく、常設施設に使えるようにするには、建築関連の法改正が不可欠だった。太陽工業は早くからその点に着目し、社長室に若手の優秀な社員を集め、技術開発や国内外の最新情報の収集に取り組んだ。同時に大学の膜関連、建築関連の研究者を集めた研究会を設けた。産学連携という言葉もない時代から、こうした取り組みを進め、研究成果は学会で発表した。そこで生まれた特許は研究者に帰属させ、同社はその専用実施権を得ることで、双方にとってウィン・ウィンの関係を築いていった。また、同業者による業界団体も発足させ、政府に法改正の必要性を訴え、実現させていった。
膜構造が常設施設にも適用可能となったことで、日本にはさまざまな構造物が登場した。その中でも東京ドームは日本初の全天候型スタジアムとして竹中工務店が施工し、ドーム部分の膜は太陽工業が供給した。完成時から大きな話題となり、膜構造の普及にも大貢献することになった。
太陽工業は大阪万博後も日本で多数開催された地方博をはじめ、2005年の「愛・地球博」や、「上海国際博覧会」、「ミラノ国際博覧会」でもメイン動線に大規模膜屋根を設置、さらに2021年開催の「ドバイ国際博覧会」では、直径130メートルと世界最大の映像ドームを膜スクリーンで施工するなど、膜構造物の進化で世界をリードする存在になった。また、1992年に米国最大の膜構造メーカー、バードエアー社を買収し完全子会社化、龍太郎氏が掲げた「世界一のテント屋になる」という目標へ着実に歩んでいる。
次の100年へ
同社は2022年に創業100年を迎えた。現在はイベントの企画設計施工を行うTSP太陽株式会社、公共施設の管理・運営を行うアクティオ株式会社との3社で太陽グループを形成し、事業規模を拡げている。新型コロナウイルス感染症が猛威を振るうなかにおいて、同社が供給したエアテントは、医療機関やワクチン接種会場で大きな役割を果たすなど、社会的意義のある取り組みにも力を入れている。
2025年に大阪で開催される大阪・関西万博においても「関西パビリオン」の設計・施工を受託した。海外パビリオンや民間パビリオンとも水面下で交渉を進めているという。能村社長は「当社は万博に育ててもらった会社。大阪・関西万博に関しては、万博への恩返しと考え、できり限り相談のあったものには応じたいと考えている。予算が厳しいのは、国民の税金を使わせてもらうのだから当然。その中でやれることは何か。新たな新素材を活用した膜材を開発したり、デジタルサービスを導入するなど、さまざまな仕掛けを考えている」と知恵を絞っている。
企業データ
- 企業名
- 太陽工業株式会社
- Webサイト
- 設立
- 1947年10月2日
- 資本金
- 25億7059万3千円
- 従業員数
- 590人
- 代表者
- 能村祐己 氏
- 所在地
- 【東京本社】〒154-0001 東京都世田谷区池尻2-33-16
- 所在地
- 【大阪本社】〒532-0012 大阪府大阪市淀川区木川東4-8-4
- Tel
- 大阪06-6306-3033・東京03-3714-3331
- 事業内容
- 膜建築、産業施設、土木、軽量構造システム、物流、防災と環境に関する製造・施工