亮太郎氏はベトナムでの事業立ち上げを終え、2022年に帰国して機械加工部長に就任した。そこで驚いたのは、本社の空気が暗くよどんでいることだった。同社の祖業である精密部品加工は赤字に転落していた。緻密な加工を得意とし、技術力に自信のあった同社の加工事業がなぜこんな事態に陥ってしまったのか。亮太郎氏は加工事業部長に就き、対策に乗り出した。当時同社の加工事業は、取引先からの安値受注に対応するため、中国に事業を移管していた。国内の拠点は、中国で加工した部品の不具合を修正するのが主な仕事となっていた。クレーム処理が仕事の中心では、現場のモチベーションが上がらないのも無理のないことだった。
「国内で利益が出る事業にするには、今まで以上に生産性を上げるしかない」。亮太郎部長はベトナム人を積極的に採用し、現場に投入した。ベトナムでの経験から彼らの優秀さは分かっていた。実際、日本人の社員が4~5人かけてやっていた仕事を、ベトナム人社員は2人でやってみせた。亮太郎部長は日本人の社員に「今のままの仕事のやり方ではだめだ。このままなら、私は今後ベトナム人を採用する。日本人でなければできない仕事を作ってほしい」と訴えた。荒療治とも言えるやり方だった。反発するベテラン社員が退職する事態も発生した。「生きるか死ぬかの改革だった。それでも若い社員はついてきてくれた」。工場長に30代、40代の若手を登用し、改革のけん引役を担ってもらった。取引先との関係も再検討し、赤字受注になっていたところは、頭を下げて取引を断った。一方で新規客の開拓に奔走した。
亮太郎部長の改革で社内が混乱する様子を見て、社長が心配して声をかけてくることもあったが、「とにかく自分に任せてほしい。1年後に絶対やってよかったと思ってもらえるから」と説得した。仕事のやり方を変えるとともに、事業所の環境改善にも取り組んだ。3S(整理、整頓、清掃)活動を徹底し、社員が居心地の良さを感じ、お客が来ても見学してもらえるレベルに改善した。実際、取引先から「会社が変わりましたね」とほめられるようになると、社員の士気も向上し、自発的にやろうという雰囲気が生まれるようになった。結果として機械加工事業部の売上高は拡大し、利益も計上できるようになった。亮太郎部長は2024年に専務に昇格し、本格的に会社経営の中枢を担うようになった。