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3年後に創業100周年 伝統の越前織で“ブランドの顔”を作る「株式会社松川レピヤン」

2022年 8月 8日

レピア織機をいち早く導入し、事業の成長につなげた3代目・松川敏雄氏
レピア織機をいち早く導入し、事業の成長につなげた3代目・松川敏雄氏

徳川家康の家臣、本多重次が陣中から妻にあてた手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」。この「日本一短い手紙」ゆかりの地である福井県坂井市丸岡町は越前織(織ネーム)の本場としても知られる。その地で大正末の1925年に創業した松川レピヤンは、国内外の有名アパレルブランドタグを中心に数多くの織ネームを製造。越前織の伝統を受け継ぐとともに、いち早くレピア織機を導入し、時代の波にも乗って着実な発展を遂げてきた。新たな主力商品となったお守り袋では、生産体制強化のため新本社の建設を進めている。3年後には創業100周年。節目の年を迎えるのを前に「越前織を全国に レピヤンを世界に」とのビジョンを策定し、さらなる飛躍を目指している。

年商と同規模の巨額投資でレピア織機2台を導入

越前織の本場に本社・工場を構える松川レピヤン
越前織の本場に本社・工場を構える松川レピヤン

同社は初代・松川三太郎氏が「松川織マーク」として創業。服やバッグなどに付けられるタグとなる織ネームは、刺繡と異なり、シャトル織機で糸から生地、柄を織り上げたもので、京都の西陣織の技術を受け継いだと言われる。

3代目となる代表取締役の松川敏雄氏が22歳で父・良雄氏の跡を継いだのが1974年。オイルショックによる不況の真っただ中だった。「機械が稼働せず、工場の中はシーンとしていた。まったく仕事がない状態だった」と振り返る。創業以来最大の危機を迎えるなか、工場で長年働いていた叔父からの勧めで織リボンの製作を始めたところ、売れ行きは順調で、辛うじて危機を乗り越えた。その後、織リボンの技術を応用して織ワッペンの生産にも着手したが、これが転機となった。

1985年に茨城県で開催された国際科学技術博覧会(つくば万博)向けに「サイズの大きなワッペンを作ってみないか」と取引先から打診された。しかし、当時使用していたシャトル織機では織れる幅が狭く、対応が難しかった。そこで敏雄氏は、ヨーロッパで登場したばかりのレピア織機に着目。レピア織機では、幅広の織物が可能となるほか、使用する糸の色も4色に限られていたシャトル織機と異なり、7~8色に広がった。

名実ともに同社の看板となったレピア織機
名実ともに同社の看板となったレピア織機

「これはいける」と確信した敏雄氏は同年末、外国製のレピア織機2台を導入。当時の価格はシャトル織機の10倍ほどで、購入費用は年商とほぼ同額。巨額の投資に周囲からは「松川はつぶれるぞ」と心配されたという。しかも、導入のきっかけとなったつくば万博はすでに閉幕しており、導入から半年間はレピア織機の出番はほとんどなかった。

それでも敏雄氏はサンプルを手に方々を回り、レピア織機の素晴らしさをPR。その甲斐あって徐々に仕事が入り始めた。時代も味方した。日本経済がバブル期を迎えるなか、企業の多くがコーポレートアイデンティティ(CI)の導入に乗り出し、ロゴマークなどの刷新が相次いだ。高性能のレピア織機をいち早く導入していたことで大企業などからロゴマークの注文が寄せられ、工場はフル稼働。「注文が増えると新たにレピア織機を導入し、それでも注文に生産が追い付かず、さらに機械を増やした」(敏雄氏)という。

昭和から平成に変わった1989年、株式会社化して社名を「松川レピヤン」とした。レピヤンは織機の「レピア」と織り糸を意味する英語「ヤーン」とを合わせた造語で、名実ともにレピア織機が同社の看板となった。

不況に強いお守り袋 新本社建設で増産へ

新たな主力商品となったお守り袋
新たな主力商品となったお守り袋

2000年代に入って同社は、将来のヒット商品となるお守り袋の生産に着手した。もともとお守り袋の生地を手掛けていたが、仲介業者から「完成品を作ってみては」と持ち掛けられたのがきっかけだった。繊細な表現や美しいデザインを見事に織り上げる技術に加え、同社が長年にわたって築き上げた信頼から、「生地だけではもったいない。松川さんなら、いい完成品を作ってくれる」との期待が寄せられたのだ。たまたまハンドメイドが好きな社員がいて、完成品のサンプルを作ってもらったところ、出来栄えが良く高い評価を受けた。その後、生産体制を整備し、2004年にお守り袋の製造販売を開始した。

お守り袋作りは同社にとっても頼もしい“お守り”となった。2008年のリーマンショックでは、神頼みが増えたせいなのか、お守り袋の売り上げだけは落ちなかった。「お守りは不況に強い。リーマンショックの前に始めていて助かった」と敏雄氏は話す。2010年には東京ビッグサイト(東京都江東区)で開催された「第5回国際雑貨エキスポ」でお守り袋を出展し、来場者から好評を得た。さらに訪日外国人による購入も増え、売り上げは右肩上がり。元号が令和となった2019年にピークを迎え、あまりの注文の多さに年半ばの6月で年内納入分の受注をストップする事態となった。

今年11月の稼働を目指す新本社(完成模型)
今年11月の稼働を目指す新本社(完成模型)

これを受け、お守り部門の増産体制を整備することなどを目的に新本社施設の建設を計画した。コロナ禍でいったん棚上げとなったが、今年5月に建設に着手。増設・増築で複数の工場に分散していた事務やデザインなどの機能を新本社に集約するとともに、現本社にはお守り袋の製造機械を増設する。このほか新本社内に体験施設やアンテナショップも併設する計画で、同11月の稼働を目指している。

越前織を全国に レピヤンを世界に

「ブランドの顔」作りに誇りと使命感を抱く同社社員
「ブランドの顔」作りに誇りと使命感を抱く同社社員

新本社建設の投資額は約4億6000万円で、このうち1億5000万円は商工中金と福邦銀行(福井市)からの融資だ。この融資にあたり、同社は中小機構のハンズオン支援事業を活用し、昨年春から中期事業計画の策定や販路開拓についてサポートを受けた。「実は、今まで事業計画など作ったことがなかった」と話すのは、敏雄氏の長男で営業企画次長をつとめる晃久氏。「昔ながらの家族経営のまま規模が大きくなったようなもの。社内に人事部も総務部もなく、会社組織としても不十分」という。それだけに、今回の事業計画策定時に役員同士で率直な意見を交わし、問題意識を共有したことはきわめて有意義な機会となった。

これを機に、企業としてのビジョンとコンセプトも策定した。このうちビジョンは「越前織を全国に レピヤンを世界に」。同社の原点である越前織を国内各地に広め、ゆくゆくは海外進出を実現しようとの思いが込められている。一方、コンセプトは「松川レピヤンは価値を生み出し、つながりを作る会社」。同社の織ネームは多くの有名ブランドのタグとして使用されており、そのタグが付くことでブランドの価値が生み出される。いわば「ブランドの顔」を作っているのが同社だ。こうした誇りと使命感を抱きながら、同社は100年の節目に向かっている。

企業データ

企業名
株式会社松川レピヤン
Webサイト
設立
1989年(創業は1925年)
資本金
1000万円
従業員数
95人
代表者
松川 敏雄 氏
所在地
福井県坂井市丸岡町内田15-7
Tel
0776-66-0158
事業内容
織ネーム、織ワッペン、越前織お守り袋、織ストラップなどの製造販売