中小企業のイノベーション

劇的に動画制作コストを削減する「宅録」のパイオニア 強みはAIに取って代わられない個性【株式会社アドロイグ】

2024年 12月 25日

ナレーター自身が自宅で録音し、編集して納品する「宅録」。今や一般的になりつつあるサービスだが、畑耕平氏は15年前からたったひとりでやり続けてきたパイオニアだ
ナレーター自身が自宅で録音し、編集して納品する「宅録」。今や一般的になりつつあるサービスだが、畑耕平氏は15年前からたったひとりでやり続けてきたパイオニアだ

とかく厳しいと聞く“声”の世界。なかなか食べていけないともいわれる職業だが、畑耕平氏率いるナレーション・動画制作会社 株式会社アドロイグ(Adroaig)に所属するナレーターたちは安定的に仕事を得ている。同社の強みは「宅録(自宅録音)」。高品質のナレーションを格安で提供できるその仕組みを築き、浸透させた。時代の先を読み、いち早く宅録を事業化した畑氏の半生は実に破天荒。一文無しになったこともあるが、ゆるぎない信条のもとに行動してきたその経験がビジネスを成功へと導いてくれた。

きっかけはちょっとした反骨精神

今でこそ良い機材をそろえることができているが、スタート時はわずか900円のマイクで収録をしていた
今でこそ良い機材をそろえることができているが、スタート時はわずか900円のマイクで収録をしていた

ここ数年でにわかに注目度が上がっている職業・声優。古くからある職業で、アニメや映画の吹き替え、CMのナレーションなど多くの場面で活躍するも、裏方のイメージが強かった。近年ではアイドル化する声優も増え、だいぶ時代が変わってきている。かつて声優は俳優になれなかった人がなる職業として「“下”に見られていた」と話す畑氏。低めのしぶい声が魅力の声優・ナレーターで、いまや年間600本にもおよぶナレーションを手掛ける。しかし「はじめての仕事は1本370円で、ゲームの声を一人ですべてこなすというもの」だったといい、噂に違わぬ厳しさからキャリアをスタート。通信制の高校生だった16歳から声優を目指し、20歳のころにやっと初仕事が取れたのだという。

そもそもなぜ声優を目指したのか。「周りにやっている人がいないから」という、単純な理由だったと話す。「とにかく他人と同じことをしたくない。自分がいなくても回るような、そんな世の中に疑問を持っていた」。弟が声優に興味をもったことで声優という職業を知り、前述の理由から声優を目指し養成所に通いだす。母子家庭で家は裕福ではなかったため、時給670円のラーメン屋のアルバイトをしながら養成所の月謝を工面した。

初めてつかんだ宅録の仕事

「宅録」は「自宅で録音」が基本。最小限の設備で始めたが、現在は作業用に借りたマンションの一室に簡易的なスタジオを自作して作業にあたる
「宅録」は「自宅で録音」が基本。最小限の設備で始めたが、現在は作業用に借りたマンションの一室に簡易的なスタジオを自作して作業にあたる

地元の姫路から大阪の養成所まで毎週、2年ほど通って卒業し、芸能事務所に所属。ここまでは声優になるために必要なコースとされる。あるとき、テレビ局の番組ナレーションの話がきた。オーディションを受けたところ最後2人というところまで選考に残ることができた。しかしその数日後、「事務所の力が弱くて負けちゃった」とあっさり仕事を断られ、「所属する意味があるのか?」と疑問を感じ、これをきっかけに芸能事務所を後にする。

トレーナーから「いい声をしている」と褒められたこともあり、なんとか声で仕事をしたい。しかしまだ実績もないうえに、声優事務所に所属していないためなんの後ろ盾もなくどうすればいいのかわからなかった。そこで畑氏は、スタジオ収録ではなく自宅で収録して自ら編集し、安く早く納品することができれば、そこに魅力を感じる映像制作会社があるのではないかと考えた。安いマイクと録音機材をそろえ、防音壁がないので布団に潜って外の音をシャットアウトしながら汗だくでサンプルを収録。制作会社やフリーランス向けの求職プラットフォームを利用するなどして、自己PRに努めた。

そこで初めてオファーされたのが、前述の仕事。1人で何役もこなさねばならないうえに370円という、高校生時代のバイトの時給よりも安いギャラを提示された。とはいえ、自ら奔走してやっと手に入れた、初めての「宅録」の仕事である。もちろん喜んで引き受けた。だが、同じ会社から何度か仕事がくるようになったとはいえ、条件は似たようなもの。しかも年に数回あるかないか、という程度。アルバイト生活から抜け出すことはできず、知人の舞台に立たせてもらったりして細々と活動は続けていた。そのころは「宅録」のライバルはおらず、維持費がかかるわけでもない。仕事は少ないが、純粋に楽しくて、不満はなかった。ただ、将来の見通しはまったく立っていなかった。

オーストラリアでホームレスに

オーストラリアではお金がなかったので、隣町まで200kmという距離を自転車で移動したりしていた
オーストラリアではお金がなかったので、隣町まで200kmという距離を自転車で移動したりしていた

「当時は、良くも悪くも自分を大切にしていなかった」と畑氏。30歳くらいまでに何かおもしろいことをやって、あとは野となれという気持ちでいた。24歳のとき、なにもかも投げ出して方位磁石だけをもってオーストラリアに渡る。「海外で生きるか、死ぬかという体験がしてみたい。スマートフォンすら持って行かなかった」というから、なにかをリセットしたかったのかもしれない。宿で知り合った人に誘われてカジノに行ったところ、持ち金がわずか1万円ほどになってしまい、ホームレス状態に突入してしまった。宿泊施設には泊まらず、自転車で移動しつつ無料のキャンプサイトに泊まる。水は飲めるが、塩分が摂れない生活。落ちていたピザを拾って食べたこともあるそうだが、「ホームレスは一度やってみたいと思っていたので、そんなにつらいとは思わなかった」と畑氏は語る。

とうとう訪れた転機

ヒューマンバグ大学の制作陣が、求職サイトに掲載していた宅録サンプルを見つけてくれたのがきっかけで制作に携わるように。ひとりで何役もこなすこともあった
ヒューマンバグ大学の制作陣が、求職サイトに掲載していた宅録サンプルを見つけてくれたのがきっかけで制作に携わるように。ひとりで何役もこなすこともあった

オーストラリアで過ごしたのは2か月ほど。帰国後は友人に誘われてイベント運営会社で働いたり、だまされて会社の負債を負わされたり、無一文になって地元に戻りエアコン工事の仕事に就いたりと紆余曲折を経たが、仕事の傍ら声の仕事を再開する。カルチャースクールや専門学校などで講師をしつつ、ふたたび宅録サンプルで制作会社に営業をかける。「声の仕事がしたい—。」前述のとおり“下”に見られがちな声優ではなく、ナレーターとして、以前よりも力を入れて営業活動を行った。

27歳くらいの頃、転機が訪れる。映画館で流すためのBMWのCMナレーションの仕事が決まり、これが評判を呼び指名がかかるようになった。「あのCMのような感じで」と、畑氏自身の声とスキルを求める注文だ。ここでようやく宅録ナレーションの仕事で月収が20万円を超えるようになり、次々と仕事をこなしていくにつれしだいに安定的に毎月の収益が得られるようになっていった。

そんな折、漫画動画のYouTubeチャンネル『ヒューマンバグ大学 闇の漫画』から依頼を受けると、自身が出演するだけでなく役柄にあった声優を配して制作にも携わるようになる。いちいちスタジオを借りたりする必要がなく、声優本人が編集までも行うことでスピードと格安の料金を実現している畑氏の宅録ビジネスは、定期的かつ頻繁にストーリーを更新する必要があるYouTube制作などにはうってつけ。同チャンネルが大ヒットしたこともあり、似たような漫画動画制作会社から次々と仕事が舞い込んでくるようになった。業務の幅も広がり、数人の声優を抱えるようになった畑氏は、制作事務所として法人化することを決意。『株式会社 アドロイグ』を立ち上げた。2019年、30歳のときのことである。

コロナ禍、そして時代の変化による後押し

宅録はたった一人で録音から編集までを手掛ける。監督も演技指導者もいないなか、クライアントが求める完璧な音声を納入できることで次につながっている
宅録はたった一人で録音から編集までを手掛ける。監督も演技指導者もいないなか、クライアントが求める完璧な音声を納入できることで次につながっている

会社を設立してすぐに、コロナ禍が押し寄せる。人の密集を避ける必要性が社会的に高まり、スタジオ録音ができなくなっていた。これがアドロイグにとって追い風になる。声優・ナレーターがそれぞれの自宅で録音したものを別の場所で再編集するスタイルの宅録はまさに渡りに船のサービス。アドロイグには漫画動画制作の仕事が次々と舞い込み、あっという間に所属ナレーターが40名にものぼる、宅録専門の制作会社として名をはせるようになったのである。

コロナ禍が宅録というスタイルの追い風になったことは事実だが、畑氏の中で、会社設立には勝算があった。時代の変化である。テレビとYouTubeでは製作費に大きな差があるが、視聴者数のカウントや属性の予測が容易な動画サイトではターゲットを絞りやすいため視聴者にとっても広告主にとっても魅力だ。「今もテレビの力は絶大」としながらも、この先10年、20年を見越すと、テレビと動画サイトの逆転もあり得ると分析する。

たとえば漫画動画は、働き盛りで忙しい人にとっては、時間を問わずに視聴できる恰好の娯楽。電車の移動中や昼休みなどにちょっと見られるよう、1話を15分程度にまとめた動画は出せば優に数十万というビュー(再生回数)を獲得する。特に90年代の人気漫画は、家族に“チャンネル権”を奪われた父親世代がひとり自室で楽しむという背景のもと、大ヒットを連発しているという。これもテレビアニメとして制作するとなると1千万円からの費用がかかるが、宅録を利用すれば10万、20万と100分の1の製作費で済むのだ。コロナ禍で宅録を利用することは一般的となり、競合する会社も出てきたが、実績と経験が段違いだ。畑氏は、ほぼ宅録だけでこれだけ長い経歴を持つナレーターは自分だけだと自負する。実際のところ、漫画動画ナレーターとしての実績では同社は全国ナンバーワンの制作数を維持している。先駆者であり、トップでもあるのだ。

AI時代の到来に備える

AI時代の到来は、声の仕事にも大きな影響を及ぼす。畑氏の個性を認めてあえて指名してくれる、そんな「ファン層をつくらなくてはならない」と話す
AI時代の到来は、声の仕事にも大きな影響を及ぼす。畑氏の個性を認めてあえて指名してくれる、そんな「ファン層をつくらなくてはならない」と話す

他の追随を許さないアドロイグだが、近年の課題はAIとの共存だ。実は数年前、有名人の声をサンプリングした音声を用いて、AIに文章を読み上げさせることができるサービスを設立するという若者と話をしたという畑氏。自らの声をサンプリングし登録することで、畑氏自身が仕事をしなくても畑氏の声のナレーションで動画を作ることが可能だ。声の使用料が入ってくる仕組みで、これまでにもいくばくかの収入になっているといい「登録してよかった」と考えているが、AI生成のナレーションはどこか機械的で個性がないため、これを畑氏自身の仕事と勘違いした人から低く評価されるのではないか、という懸念もある。

ただ、実際にNHKなどはすでにニュースの読み上げにAIを導入しており、野沢雅子さんなどレジェンド級と呼ばれる有名声優もAI音声に参入。「無視できるものじゃないんですよ。それなら乗っかるほうがいい」という。それに、AIとヒトによるナレーションは使われる場所や用途が異なるといい、それほど脅威には感じていない。「声がいい人ならだれでもサンプリングされるだろうし、その中のどれでもいいのではなくて、“畑耕平じゃなくちゃ嫌だ”。そんなふうに思ってもらえる仕事をすればいい」と、AIによって淘汰されないナレーターを目指すべきだとする。そこに必要なのは個性だが、それこそ畑氏の最も大切にしている人生テーマだ。なにしろ「他人と同じことをしない」をモットーにこれまで生きてきた畑氏ゆえに、その追及を怠ることはない。それに、オーストラリアでのさまざまな体験、友人に騙されて会社の負債を負わされたことなど、さまざまな感情を経験したことで人間にも深みが増し、それがひいては芸の肥やしにもなっている。

座右の銘を胸に、この先も

集中力を高めるためにヘッドフォンを着用し、周囲からの情報をシャットアウト。録音の後は崩れ落ちるほど疲弊することもある集中ぶりだが、ここまで一生懸命になれるのもひとえに「楽しいから」
集中力を高めるためにヘッドフォンを着用し、周囲からの情報をシャットアウト。録音の後は崩れ落ちるほど疲弊することもある集中ぶりだが、ここまで一生懸命になれるのもひとえに「楽しいから」

他人と同じことをしない、というのは他人と“違う”ことでもあり、「なかなか認めてももらえない」と畑氏。20歳のころに確立した「宅録」も、きちんと収益が出るまでに7,8年を要している。その間に「ふらふらしていた」こともあったが、畑氏がずっと声の仕事にこだわり続けてこられたのは、座右の銘があったからだ。

「がんばらない」。それは、19歳のときに参加したワークショップで聞いた、吉本興業所属の劇作家 後藤ひろひと氏の言葉だ。「『演劇』を意味する英語は『Play』。この単語は同時に『遊ぶ』という意味もある。遊ぶのに人はがんばったりしない。でも子どものとき、遊ぶときは全力だった。なぜなら、それは楽しいからだ。楽しむことに全力を使うのに、大人になるにつれてそれができなくなってくる。演劇も同じ『Play』だから、その感覚を忘れてはいけない。」この言葉が、妙に腑に落ち、ずっと心に残っているという。以来、楽しむことを一生懸命やってきた。オーストラリアでホームレス状態だったときも、野菜ジュース1本で1日の食事をしのいだときも、宅録が軌道に乗り始め2年間まったく休みが取れなかったときも、楽しむことを目標にしていたからこそ、全力で乗り越えることができたのだ。「有名になりたいとか、大金を稼ぎたいといった憧れを僕は持っていない。他人と違うことをやって、それが楽しいからやるんです」。「楽しさに忠実」であったからこそ、この成功があったと信じている。

企業データ

企業名
株式会社 アドロイグ
Webサイト
設立
2019年
資本金
100万円
従業員数
5名
代表者
澤田耕平 氏
所在地
非公開
E-mail
info@adroaig.com
事業内容
ナレーション・動画・楽曲制作
スクール事業
配信事業