あすのユニコーンたち
国産量子コンピューターの命運握る制御装置を開発【キュエル株式会社(東京都八王子市)】
2025年 3月 24日

次世代コンピューターとして世界が開発を競う「量子コンピューター」。キュエル株式会社は、その中核装置の一つである制御装置を開発・販売する日本唯一の企業。キュエルは企業経営の経験が豊富な伊藤陽介氏と、日本の量子コンピューター研究の第一人者である根来誠大阪大学准教授が出会って設立された。2022年に制御装置の出荷を開始、2023年には理化学研究所の国産初量子コンピューターに同社の制御装置が採用されるなど、国内外で高い評価を得ている。一連の取り組みが評価され、伊藤陽介代表取締役は中小機構主催の「第24回 Japan Venture Awards」(2024年12月)で科学技術政策担当大臣賞を受賞した。
液晶、半導体市場で経営経験を積んだシリアルアントレプレナー

伊藤氏は静岡県浜松市で生まれ育った。浜松市はホンダやヤマハなど日本を代表する製造業が誕生した地で、父親がエンジニアだったこともあり、子どものころからものづくりに関心を持っていた。東京大学に入学した時には「将来はエンジニアになろう」と考えていた。ある時大学の掲示板で「東京大学アントレプレナー道場」のポスターを見ておもしろそうだなと興味を持った。同道場は、起業について初歩から体系的に学ぶプログラム。今でこそ大学発スタートアップは珍しくないが、当時は東大を卒業したら官僚か大企業に入社するのが通例。伊藤氏は道場の二期生となった。自らビジネスプランを書いて、大勢の前でプレゼンテーションを行う。何もかもが初めての経験だった。当時研究していた三次元ディスプレイに関するビジネスプランのプレゼンを行ったところ、最高位の賞を獲得した。こうした経験から「生き方として大企業に就職するより、チームで新技術を社会実装する会社を起業するのも面白そうだ」と思うようになった。
ただ、2008年に東大大学院の修士課程を修了して入社したのは外資系のコンサルティング会社だった。「まだ起業することまで踏ん切りがつかなかった」のだという。ここで製造業向けに新規事業創出、マーケティング戦略策定などさまざまなプロジェクトの経験を積み、最後の仕事として担当したのが、ジャパンディスプレイ(JDI)の設立だった。JDIはソニー、東芝、日立製作所の中小型液晶事業を統合して2012年に発足した。伊藤氏はコンサルタントとして3社の統合戦略の策定を担当した上で、JDIの発足初日にJDIに転籍し、3年の在職期間で、組織再編、株式公開などを担当した後に同社を退社した。
「いずれは研究開発型スタートアップの経営をやりたい。そのためにもう一度学びたい」と考え、米マサチューセッツ工科大学(MIT)の経営大学院に入学した。MITは起業家教育で世界有数の取り組みを行っていた。「エンジニアリングスクールの学生とビジネススクールの学生が一緒の授業を受けて、技術をどうやって事業化するかといった実践的な授業が学びになった。ボストン周辺にはたくさんのスタートアップ企業が集積しており、そうした企業が成長する姿も見てきた」と言い、起業家としての未来を具体的に描くようになっていった。
MITで経営学修士(MBA)を取得し、2017年に日本に帰国して最初に就いたのが、有機半導体を手がけるパイクリスタル株式会社の代表取締役だった。同社は東大・阪大発のスタートアップ企業で2013年に設立された。有機半導体単結晶の成膜技術を核に薄型のデバイスを開発・製造・販売する事業を目指していた。将来有望な技術として新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)などの研究助成を受けている段階だった。伊藤氏は研究開発から試作へと進む段階で経営に参画した。念願のスタートアップの事業に携わることになり、資金調達に奔走した。その途上で、出資者であったダイセルから同社を買収したいという申し出があった。将来を評価してのことであり、ダイセルには同社が今後量産を進めるために必要なものづくりのノウハウや人材も豊富だった。同社は2020年1月にダイセルグループ企業となった。伊藤氏は「自分のここでの役割は終わった」と、退社を決めた。まだまだ事業をやり切ったという実感はなく、今度こそ自分で一から事業を作り上げたいとの思いを強くしていた。
2月に出会い、7月にキュエルを創業

しばらくは書籍を読んだり、他のスタートアップを手伝ったりしながら、次の機会を探っていた。そんな時に大阪大学の産学連携の担当者から、量子コンピューターの制御装置研究に取り組む根来誠大阪大学量子情報・量子生命研究センター准教授を紹介された。根来准教授も自分の研究成果を事業化したいと考えていた段階だった。「2021年2月に出会って、4月に一緒に会社を立上げようと決め、7月にキュエル株式会社を創業した」(伊藤氏)。まさに急展開とも言える立ち上げだった。
量子コンピューターは、量子力学の原理を応用するコンピューターで、0と1の重ね合わせ状態を用いて並列計算を行うことで、従来のスーパーコンピューターでは容易に解くことができない複雑な計算を短時間で行なえることから、次世代のコンピューターと言われている。米欧や中国など世界が開発にしのぎを削っており、日本も2020年に「量子技術イノベーション戦略」を策定し、国が支援すべき革新技術の一つと位置付けて支援を強化する方針を打ち出していた。ただ、まだ本格的な実用に耐えられる装置はどこも開発できておらず、誰が先陣を切れるのかも未知数。伊藤氏は「こうした新しい市場づくりから始まる分野に大きな魅力を感じた」のだという。キュエル以前に手掛けた半導体ビジネスは、すでに巨大化した市場があり、そこに新規技術で切り込んでいくのだが、コストダウン圧力や設備投資のタイミングなど、小さな企業には乗り越えることが困難な場面がたくさんあった。それに対して、量子コンピューターはまだ市場として小さく、誰もが勝者になれる可能性を秘めている。キュエルの創業メンバーには量子コンピューターの研究者がおり、そのネットワークを活用して、ユーザーとなりそうな企業や研究機関のニーズもほぼ把握できていた。「この分野ならこれまでの会社でできなかったことがやれる」。経営者として培ってきた知見を、量子コンピューター市場に懸けたいという思いが湧き上がっていた。
一方、根来准教授も2019年ごろから独自の制御装置の事業化を考えていた。自分でビジネスプランを作成し、ベンチャーキャピタルに出資のお願いをして回ることもやった。しかし「プランが甘い」と突き返されるばかりの日々だった。そんな時に伊藤氏と出会い、両者はすぐに意気投合した。スタートアップの経営を知る伊藤代表取締役、根来取締役CSO(最高科学責任者)に、コンピュータアーキテクチャの専門家である三好取締役CTO(最高技術責任者)も合流し、キュエルは創業した。
初年度から黒字を達成

量子コンピューターは、大きく分けると「量子ビット」、「制御装置」、「量子ソフトウエア」で構成されている。制御装置は、量子ビットが行う演算に対応したパルス列のマイクロ波を生成し、各量子ビットに対して出力するとともに、量子ビットの状態をマイクロ波で読み出す役割を果たすもの。従来の制御装置は研究機関や企業が独自に開発し、自社の量子コンピューターに組み込むケースが大半で、その中身はブラックボックス化されていた。キュエルはこの制御装置の専業メーカーとして設立された。創業資金は、伊藤氏や根来氏など創業メンバーが自己資金を出し合って賄った。
キュエルの制御装置は、阪大の研究成果を製品に落とし込んだものだ。制御装置に必要な機能を一つのユニットにまとめることで、小型化を実現させた。ユーザーは装置の校正などに手間がかからず、すぐに使用することができる。また、ユニットを複数ならべて同期させることで、量子ビット数の拡張にも対応できる。量子コンピューター開発に関心を持つ企業や研究機関に提案をすると、「すぐにでも使いたい」という声が上がるなど、創業時から反応は上々だった。事業化初年度に2台の制御装置が売れた。売り先は産業技術総合研究所。NEDOから研究委託事業を獲得していることもあり、初年度から黒字経営が実現できた。2年目は25台もの受注を獲得した。ただ、2台と25台ではやはり違った。製品品質のばらつきに苦しんだが、その分、製造ノウハウを蓄積できた。さらに部品の調達コストが急増し、資金繰りの悩みも生まれたが、銀行からの融資を取り付けて、乗り切ることができた。このようにして、キュエルの事業推進力は磨かれてきた。25台の受注の大半は理化学研究所向け。理化学研究所が、キュエルの制御装置を用いて、国産初の量子コンピューターを稼働させるといった実績が積み重なることで、金融機関の同社を見る目も変わった。その後も、順調に採用実績を重ね、3年目となる24年6月期は45台を販売した。国内外の企業からの引き合いも旺盛にあり、黒字経営を維持している。創業期の苦労を一つ乗り越えることができた。
100万量子ビット対応に挑戦

理化学研究所が稼働させた国産初の量子コンピューターの能力は64量子ビット(量子ビットは、量子コンピューターで扱う情報の基本単位)。現在世界で100量子ビットを超えるコンピューターも試作されているが、実用化には100万量子ビットが必要とされ、そこに到達する道のりはまだまだ遠い。キュエルは、まずは1000量子ビットに対応した制御装置の開発を進めている。当面の課題は装置の小型化だ。また、現行量子コンピューターの主流である超伝導方式に加え、イオントラップ、冷却原子、半導体量子ドットなど、他の量子ビットの方式にも順次対応していく計画。量子コンピューターの実用化は、政府の野心的な10の技術開発目標「ムーンショット目標」の一つに掲げられており、キュエルも研究機関や大企業とともに、開発企業として名を連ねている。伊藤代表は「いずれは100万量子ビットに向けた開発をしていく」と大きな目標を掲げる。
同社の拠点は東京八王子の本社と阪大の2拠点。密なやりとりをしながら事業を進めている。阪大の最先端の研究成果をビジネスに即座に活用できるのが、同社の強みだ。現在の従業員数は14人。伊藤代表は「もっと人を増やしていきたいが、量子コンピューターの開発といっても、コンピューターや物理の知識だけでなく、ソフトウエア、FPGA(半導体チップの一種)、マイクロ波エレクトロニクスのエンジニアなどさまざまな人材が必要。業績は順調に上がっており、積極採用中。量子コンピューターという新たな技術領域でのチャレンジを求める方に、ぜひ仲間になっていただきたい」と人材確保にも精力的に取り組んでいる。
今年は量子物理学が誕生して100年。国連総会は量子物理学誕生100周年を記念して、2025年をユネスコの「国際量子科学技術年」として決議し宣言した。実現は不可能といわれた量子コンピューターの実現も10数年から20年後には可能と見通せる段階まできている。伊藤代表は「量子コンピューターは一つの巨大企業がすべてを開発する垂直統合ではなく、分業していく時代に入った。これから量子分野のスタートアップのすそ野を広げていかなければならない。日本には制御装置のユーザーとなる研究機関・企業が存在し、ニーズを聞きながら開発ができる環境もある。ただ、開発には長い期間が必要で、スタートアップが継続して事業を続けるには国の支援も必要だ」と国内で量子コンピュータービジネスが育つための環境整備の必要性を訴える。そして「当社は制御装置で世界有数の存在となり、日本の量子コンピューターをけん引する役割を果たしたい」と、未開の市場開拓へ踏み出す覚悟を固めている。
企業データ
- 企業名
- キュエル株式会社(英語表記:QuEL, Inc.)
- Webサイト
- 設立
- 2021年7月
- 資本金
- 860万円(資本準備金含む)
- 従業員数
- 14名
- 代表者
- 伊藤陽介 氏
- 所在地
- 東京都八王子市大和田町2丁目9-2 大和運輸ビル3階(5月に移転予定)
- 事業内容
- 量子コンピューターの制御装置・ミドルウェアの開発、製造、販売