本田技研工業創業者

本田宗一郎と藤沢武夫(本田技研工業) 第8回 絶対絶命の危機

著者・歴史作家=加来耕三
イラスト=大田依良

卓越した技術によって支えられてきた、新興企業=本田技研工業が、その"主力商品の全滅"という局面を迎えた。

しかもその一方で、本田宗一郎が思うさま海外で買いつけた最新鋭の、機械類の購入代金が4億5000万円(当時)、その支払い期日が迫っていた。売り上げの急降下は、従業員の給料にも差し障りをきたす。組合も当然のごとく激昂した。

このような局面に遭遇しては、いかに有能な経営者でも手の施しようがなく、万策つきてすべてを投げ出してもおかしくはなかったろう。

現に、本田自身もそういっている。

「もともとだれの目にも冒険と映っていた輸入である。銀行が買い入れ資金を貸してくれるはずがない」
(『私の履歴書』)

と。では、この苦境をどうすればいいのか。本田の答えは、実に彼らしい。

「こうなった以上、私に残された道はただ一つ、 ただしゃにむに前進あるのみだった」

意気やよし。だが、具体的な対策を、本田はまったくもっていなかった。

もしもこの時、藤沢武夫が"ホンダ"の経営を担っていなければ、間違いなく本田技研は、倒産を余儀なくされたであろう。

藤沢の凄味は、こうした局面にあってなお、決して逃げなかったことである。彼はすでにみたように、本田同様、学歴の人ではなかった。長い下積み生活をつづけ、二十八歳でどうにか町工場の主に成りあがった人物である。

のちに藤沢はいう。

「私は決してうそをいわなかった」

人間、誰でもミスや失策が出ると、そのことを隠蔽したくなるものだ。もし、外部に知られれば、それこそ不安材料に使われ、ことによってはウワサがウワサを呼び、倒産という最悪の状態に陥るかもしれない。

昭和の金融恐慌のおり、

「あぶないらしい」

との憶測で、伝統のある銀行が、実際に倒産に追いやられたことがあった。

だが、藤沢にいわせれば、それも憶測の余地あればで、すべてを包み隠さず公表していれば、最悪の事態を回避できたはずだと考える。むろん、主力銀行に報告にいく際、何の対処法も持たずにいけば、それは無能のレッテルを貼られるのみ。

まず、どうこの危機を乗り切るか、の具体的な方策がなければならない。さしもの藤沢も自宅にこもり、独り眠れぬ夜をすごした。こうした時、役に立つのは理屈ではない。これまでの経験則であった。従業員につつみかくさず会社の現状を伝え、その協力を要請し、ユーザーに対しても見通しを含め、具体的な応援を依頼した。

  • 「他人に迷惑をかけない」
  • 「相手の立場に立つ」
  • 「長期的にものを見る」

いずれも、藤沢語録である。

では、藤沢はどうしたか。具体的にいえば、製品を出荷して十数日で代金を全額回収するという手法をもちいた。 しかも、75%を現金で、残りは手形だが、この手形は問屋手形ではなく、ユーザー自身の手形を問屋や代理店が裏判したものであった。

なるほど、このやり方なら現金回収は早い。もっとも、ユーザーとの信頼関係がなければ先方は決して応じまいが。ついでながら、この方式は現在も、"ホンダ"で採用されている。

それにしても、このおりの藤沢の心中は、いかばかりであったろうか。

毎日がタイトロープ(つなわたり)であり、一つでも手形を落とし損ねれば、その被害は全体に及ぶ。さぞや、眠れぬ夜がつづいたに違いない。

マスコミはこのおりの"ホンダ"のあたふたぶりを、

「ホラ見ろ、本田のアプレが始まった」

と評したという。

(この項つづく)

掲載日:2006年4月12日