本田技研工業創業者

本田宗一郎と藤沢武夫(本田技研工業) 第7回 天国から奈落の底へ

著者・歴史作家=加来耕三
イラスト=大田依良

本田宗一郎とアイルトン・セナのイラスト

翌昭和27年3月には、白タンクに赤エンジンのF型カブ=自転車補助エンジンも完成。"ホンダ"は東京工場だけでは生産が間にあわず、月賦で埼玉県内の白子にあった廃工場を購入し、カブの生産に当てた。

藤沢はF型カブの完成とともに、本田の懸案となっていたまともな販売網づくりにいよいよ着手する。夜逃げやサギまがいに未収入をかさねたホンダでは、それに懲りて代理店を通じての販売を委託していた(約300店)が、将来を見据えた藤沢は独自の販売網の必要性を痛感していた。

しかし、先発メーカーの大半は、全国各地の素封家を選び、彼らの資力と知名度を活用して、販売網の基盤を固めていた。

あきらかに"ホンダ"は、出遅れていたのだが、藤沢はこのハンディを"コロンブスの卵"の発想転換で、見事に覆したのであった。

「全国に自転車販売店は五万五千軒ある。これを組織化すれば......」

エンジンを扱ったことない自転車販売店に、バイクを売らせようと藤沢は考えたのである。手段も奇抜であった。全国の自転車販売店へ、連日、手紙を書いては送りつけた。

藤沢は日本の自転車店が勇気を持って新時代の輸入自転車を扱ったことほめ、しかし戦後はエンジン付きのものを客は求めている、と述べ、まずは先方の手応えを探った。

約3万通の返事が寄せられ、これを受けて藤沢は第二の手紙を出した。

"ホンダ"のバイクを、1軒1台ずつ申し込み順に送ります。小売り価格2万5千円ですが、卸価は1万千円です(小売りマージンは24%)。代金は郵便為替でも三菱銀行京橋支店の当座口座に振り込んでいただいても結構です。

抜け目なく藤沢は、その足で三菱銀行の京橋支店長に送金の件を事後報告。あわせて支店長に送金の依頼状まで書いてもらう手を打った。

連日、全国の自転車販売店から、カブの代金が振り込まれ、注文伝票はそのまま、販売店リストにバケていった。

またたくまに、全国1万3千軒の販売網ができ、やがては3万軒にふくれあがっていく。

「たとえ最初は苦しくとも、松明は自分の手で揚げて進もう」

と名セリフを吐いた藤沢はその後、代理店や営業所から小売業務を分離し、卸専門のシステムを構築している。経営基盤の弱い末端販売店の権益を守りつつ、"ホンダ"が共存共栄するためであった。

この販売ルートはやがて四輪にも適応され、併せて修理のためのSF工場(サービス・ファクトリー)、中古車販売会社を全国へ展開して小売店をサポートしていく体制へと展開する。

藤沢はカブの前納金だけで2億円という大金を集めた。が、それでいて製品代金の受け取りは現金、部品や資材の仕入れは5カ月手形というスタイルをつくった。その中間で運転資金を捻出するためであった。

昭和27年、売り上げは前年比の約8倍、24億4千万円を記録した。

藤沢は本田にいう。

「"ホンダ"は卓越した技術という"カネのなる木"を持っている。今なら金はある、もっと何十本もの"カネのなる木"を植えておこう。そのためにはここで、思い切って設備投資すべきではないか」

カネに糸目をつけず、欲しい機械をどしどし購入し、工場も新しくしよう、と藤沢はいうのである。

本田は地元銀行の融資部長に意見されたことを思い出したに違いない。

資本金600万円の会社が4億5千万円の最新鋭の輸入機械を購入した。新工場も白子についで大和工場、葵工場と建設が行なわれ、資本金は昭和28年12月に6千万円となった。 この年の売り上げは、前年比の3倍=77億3千万円になっていた。

翌29年1月、創業6年目にして株式を公開。"ホンダ"の意気は軒昂であった。

ところが、好事魔多しとはよくいったもの。

破竹の勢いで独走態勢に入ったはずの"ホンダ"が、信じられない二重、三重の失策をほぼ同時期に連発してしまう。

株式公開してほどなく、全国の自転車販売店で人気を独占していたカブが、売れ行き不振となった。原因は市販の自転車が各々、規格の違うことから、後輪の脇にエンジンを取りつけてきた方法が、自転車によってはエンジンがずれる欠陥を露呈。その間隙をぬって、競争メーカーは自転車の三角パイプの中に置く新型エンジンを開発。しかも、藤沢の構築・整備した自転車販売店のネットワークに乗せて売り出したためである。

それに追い打ちをかけたのが、スクーター「ジュノオ」の不振。これはエンジンをポリエステルで覆ったために、オーバーヒートしたこと。車輪が小さい割に、総重量が重く取り扱いに不便との悪評に拠った。

さらに、道路交通法の改正によって生まれた90CCの「ベンリィ」——4サイクル90CCまでは無試験許可制に拠る——が、タペットとギア音が高いせいで不人気となった。

事業でも戦争でも、勢いというものがある。悪化するときはいちどに多くのことが積み重なってしまう。

止めは、肝心かなめのドリーム号が225CCにボア・アップした途端、皆目売れなくなってしまったことであろう。

"主力商品全滅"——枕を並べての打ち死とは、まさにこのことであったろう。

そこへ4億5千万円の買い物の支払い、膨大な新工場の建設費が待ちうけていた。昭和28年6月に結成された労働組合ともうまくいっていなかった。

それにさらなる追い打ちかけるように、マスコミが"ホンダ"の危機説を書き立てた。経営の全権を預かる藤沢は、絶体絶命の危機に追い詰められたといえる。

(この項つづく)

掲載日:2006年4月5日