いつも思うことだが、"ホンダ"の技術者の真骨頂は、ごく普通の人の発想に、決して流れない点にあるのではないか。
たとえば、"バタバタ"——これが売れているというならば、もともと搭載した無線機のエンジンを復元すれば、同一の性能が出せるわけで、研究開発費はゼロ。もっとも労力は少なく、利益も確保できる。ふつうの人はそう考える。
しかし、"ホンダ"の技術者は、決して人マネをすることを潔しとはせず、プライドが許さない。これは本田宗一郎の遺伝子であろう。彼もエンジンの複製にがまんがならなかった。それは形をかえ、同じ造るなら、オートバイを作りたい、との考えにむかった。
エンジンの商品化第一号の「ホンダA型」—B型—C型ときて、ついに「ドリームD型」エンジンにいきついた。
真紅のボディーをつけたこのD型を載せて「ドリーム号」が完成したのが、昭和24年8月のことであった。冒頭の藤沢専務に泣きついた、2年前のことでもある。
「ドリーム号」は、好評で、順調に造るそばから売れていった。だが、しっかりとした販売網をもたなかった本田は、それまでに小さな自転車屋とかヤミ屋などを取り引き相手としてきたため、夜逃げされたり詐欺にあったり、散々な目にあって、肝心の代金の回収ができずに困惑してしまう。
このとき、本田の前に姿をあらわしたのが藤沢武夫であった。
もし、地元銀行と決裂したときと同様、この人物が"ホンダ"に参画していなければ、本田宗一郎は中小企業のおやじで生涯を終え、それも途中で運転資金に詰まって瓦解してしまった懼れがあった。 最初の"ホンダ"の危機を、藤沢はどう救い、次なる東京進出について、どのような妙手を編み出したのであろうか。