ソニー創業者

井深大(ソニー) 第2回 戦時中と戦後の技術の違い

著者・歴史作家=加来耕三
イラスト=大田依良

井深は、古河鉱業日光製銅所の技師であった井深甫の長男として、明治41年4月11日に生まれている。

ところが父は、彼が3歳のときに他界し、幕末の戊辰戦争において会津藩士として奮戦、生き残った祖父が、井深を引きとることとなる。廃藩置県後、“国賊”扱いにされ、苦労し、北海道で官吏となった祖父は、古武士然とした我慢強い人で、井深の人間形成に多大な影響を与えた。

が、当時としてはハイカラな日本女子大学を出ていた母にすれば、義理の父である井深の祖父は、馴染めない人であったようだ。母は自活の道を求めて上京し、日本女子大の付属幼稚園の先生をしながら井深を育てた。

学生時代の井深

父と母を失ったに等しい井深は、孤独感を埋める手段として、無線機製作などへ打ち込んでいく。

早稲田大学の高等学院に進学し、同大学の理工学部へ進んだ彼は在校中、のちにパリの博覧会で優秀発明として賞をうけた「走るネオン」の研究をものにしていた。

東芝を受験したが失敗。光を音に変え、音を光に変える録音技術に興味をもち、 PCL(フォト・ケミカル・ラボラトリー)=写真化学研究所に入社。

若き研究者として「日本光音」へ移った井深は、やがて独立して「日本測定器」の技術担当常務となるが(32歳)、その前途は日本の戦争への深入りにより、戦時科学技術の世界へと誘われることとなる。

昭和20年8月15日、終戦。

これもぜひ、“昭和のおやじさん”の成功の条件に補足的に加えておきたいのだが、彼らはこぞって、“戦争”という不可抗力なものに人生の大切な一時期を奪われていた。

理不尽な国の力、自分のしたい仕事ができず、したくないことを押しつけられる境遇。その閉塞された気持ちは、やがて終戦を迎えて爆発する。

井深の場合、これまで出会った大学時代、社会人としての人脈をたどって、「東京通信研究所」→「東京通信工業株式会社」を旗上げすることにつながった(ソニーと社名を変更するのは昭和33年)。

いま少し、戦争と技術について触れたい。

戦時における技術者の宿命は、軍部が決めた高性能のものを、仕様書通りに仕上げる技術が要求された点である。

これは筆者の独断だが、戦後、日本の技術者は見本さえあれば、海外の新製品を器用に、同じ性能をもってすぐさま復元、製作する技術を習得していた。

これは、戦時中の技術要求の成果であったろう。が、この仕事のやり方では、自分なりの工夫、性能をよくするための自由な発想が欠落していた。そのため、創意工夫がない。

問題は仕様書のない、まったく新しいものを産み出すことができるか否か。

井深の会社はまず、部品の仕入れに奔走しつつ、ラジオの修理を請け負い、次に短波も聞けるコンバーターを世に出した。

これが朝日新聞に紹介され、のちに井深の補佐役、自らも経営者となる盛田昭夫が、その記事を読んで連絡をしてくることとなる。

電気炊飯器もつくった。木のおひつの底にアルミの電極をつけただけというしろもので、思うようにご飯が炊けず、ソニーの失敗第一号となった。

もし、このとき真空管電圧計が商品化されていなければ、“ソニー”も、その他多くの町工場と同じ運命を辿ったかもしれない。

皮肉なことに戦時中の軍部にかわって、今度は官庁需要に支えられ、“ソニー”は町工場としての基盤を築いた。この段階で盛田が参加してくる。ときに、井深は38歳。盛田は25歳だった。

彼の実家は300年の伝統を誇る醸造業の老舗で、海軍の技術将校であった。戦後は東京工大の講師をつとめていたものの、GHQの公職追放で追われ、井深のもとへ。

簡易な信号発生器を市販したり、ダミー会社をつくって電熱マットを商品化したり、井深の試行錯誤はつづいた。

いよいよ、のちの“ソニー”を決定する時期に差しかかる。(この項つづく)

掲載日:2006年1月12日