日本麦酒醸造は、ドイツ人技術者の手による上質のビールを醸造し、商売繁盛をあてこんだブランド名でその真価を世に問うた。発売当初のヱビスビールは売上も好調だったが、やがて不況の余波を受けて苦境に立たされる。それは経営危機までささやかれるありさまで、三井物産の専務委員だった馬越恭平が1891年に再建役として送り込まれた。
馬越翁は容赦なく大なたをふるって会社経営を合理化し、アイデアマンとしての才腕を縦横無尽に駆使して市場開拓を進めた。ちなみに1899年8月4日に新橋際(現在の東京・銀座八丁目)に「恵比寿ビヤホール」を開設したのも馬越翁であり、これは日本最初のビアホールだったことから、いまでも8月4日はビアホールの日とされている。
その後、ヱビスビールは1900年にパリ万博で金賞、04(明治37)年に米国セントルイス博でグランプリを受賞するなどますます声価を高める一方、日本麦酒(1893年に日本麦酒醸造から社名変更)の事業も順風満帆に拡大していった。
ところが、昭和の時代に入り戦火が激しくなり始めた43(昭和18)年、ビールの配給制が敷かれ、すべてのビールの商標が「麦酒」に統一されてヱビスビールのブランドも市場からいったん消滅した。
この配給制は第2次世界大戦後もしばらく続く。黒沢明監督の往年の名作「野良犬」(1949年作品)をご覧になった人ならこんなシーンを憶えているだろう。それについて評論家の川本三郎氏が書籍(「ヱビス本」、枻出版社)でこう紹介している。
「先輩刑事の志村喬が後輩の三船敏郎を『配給のビールがあるのを思い出してね』と自宅に誘う」