2026年 11月 4日
昨今の採用難や物価高に対応するため、無理をして一律の賃上げに踏み切った中小企業経営者です。しかしその後、急激な業績悪化に見舞われ、現在の収益力では引き上げた賃金水準を維持することが困難になってしまいました。資金繰りも悪化しており、ひとまず賃金を元の水準に戻したいと考えているのですが、どのようなことに注意して進めればよいでしょうか。法的なリスクや、従業員に納得してもらうための具体的な手順、今後の対策があれば教えてください。
回答
会社が一方的に賃金を引き下げることは、原則としてできません。基本給などの労働条件を従業員に不利益な形で変更する場合は、労使の合意が基本となります。ただし、就業規則の変更について合理性や周知などの要件を満たす場合には、個別の合意がなくても変更が認められることがあります。
業績悪化により人件費の見直しが避けられない場合でも、まずは役員報酬の削減、不要不急の経費削減、資金繰り対策など、会社側の自助努力を示すことが重要です。そのうえで、基本給、賞与、手当などの見直しの可能性を整理し、労働契約や就業規則等を確認しながら従業員と協議します。判断に迷う場合は、社会保険労務士や弁護士、中小企業診断士などの専門家に相談しながら進めましょう。
1.業績悪化を理由に賃金を下げることはできるか
業績悪化を理由に、いったん引き上げた賃金を元の水準に戻したいと考える経営者は少なくありません。しかし、基本給などの賃金は労働条件の重要な要素であり、会社の判断だけで一方的に引き下げることは避ける必要があります。賃金の見直しを検討する場合は、労働契約法上の考え方を踏まえ、従業員への説明や合意形成を丁寧に進めることが重要です。
(1)賃金引き下げは従業員との合意が基本となる
労働契約法8条では、労働契約の内容である労働条件は、労働者と使用者の合意によって変更できるとされています。つまり、基本給などの賃金を引き下げる場合は、労使の合意によって変更することが基本です。
この合意は、単に同意書に署名してもらえば足りるというものではありません。従業員が会社から強い圧力を受けた状態で同意した場合や、十分な説明がないまま署名した場合には、後から「自由な意思に基づく同意ではなかった」と判断される可能性があります。
そのため、賃金の引き下げを検討する場合は、会社の経営状況、賃金見直しが必要な理由、見直しの期間や範囲、業績が回復した場合の復元方針などを、できるだけ具体的に説明することが大切です。面談や説明会を行う場合も、従業員が質問しやすく、検討する時間を確保できるように配慮する必要があります。
(2)就業規則を変更する場合は「合理性」と「周知」が問われる
従業員一人ひとりの同意を得ることが難しいからといって、就業規則や賃金規程を会社側だけで変更し、一律に賃金を引き下げることにも注意が必要です。
労働契約法9条では、使用者が労働者と合意することなく、就業規則を変更して労働者に不利益な労働条件の変更を行うことは、原則としてできないとされています。一方で、同法10条では、変更後の就業規則を従業員に周知し、その変更内容が合理的である場合には、就業規則の変更によって労働条件が変更される場合があるとされています。なお、常時10人以上の労働者を使用する事業場では、就業規則を変更する場合、過半数労働組合があるときはその労働組合、ないときは労働者の過半数を代表する者の意見を聴き、変更後の就業規則を所轄の労働基準監督署へ届け出る必要があります。
この「合理性」は、単に会社の業績が悪化しているというだけで認められるものではありません。従業員が受ける不利益の程度、会社側の必要性、変更後の内容の相当性、代償措置や経過措置の有無、従業員側との協議の状況などを総合的に見て判断されます。
たとえば、役員報酬の見直しや人件費以外の経費削減を行わないまま、従業員の賃金だけを引き下げる場合、従業員の納得を得ることは難しくなります。反対に、会社側が自助努力を行い、経営資料を示しながら丁寧に説明し、一定の代償措置や業績回復時の復元ルールを設けるといった対応は、従業員の理解を得るうえで重要な要素となります。
このように、賃金の引き下げは、会社の資金繰り対策としてすぐに実施できるものではありません。まずは、賃金以外の経営改善策を検討したうえで、従業員への説明、個別合意、就業規則や賃金規程の確認を慎重に進める必要があります。
2.賃金見直しが従業員に与える影響
法律上のルールをクリアできたとしても、組織運営への影響を無視することはできません。ここで経営者が最も注意すべきは、社内に生じる大きな受け止め方の違いです。経営者側には「賃上げ前の水準に戻す」という認識であっても、従業員にとっては、引き上げ後の基本給が生活設計の前提となっています。賃金の引き下げは、従業員の生活だけでなく、会社への信頼や就業意欲、人材定着にも影響する可能性があります。
従業員に「経営判断による負担を押し付けられた」と受け止められると、組織の士気が低下することもあります。この不信感を放置すれば、モチベーションの低下や離職につながるおそれがあります。組織運営への影響を抑えるためにも、経営者は誠実なプロセスを踏んでいく必要があります。
3.賃金見直しを検討する3つの手順
では、業績悪化によって本当に人件費を抑制しなければ事業の維持が困難な場合、どうすべきでしょうか。先述した受け止め方のギャップを解消し、従業員の理解を得ながら適切に手続きを進めるため、次の3つのステップで検討します。
ステップ1:経営陣の自助努力
従業員の賃金に手を付ける前に、まずは経営陣側も負担を分担する姿勢を示します。具体的には、役員報酬の減額、不要不急の経費削減、遊休資産の売却など、会社として可能な限りの経費削減を先行して行います。同時に金融機関への返済条件の見直し相談など、資金繰り対策も検討します。
ステップ2:丁寧な情報開示と経営状況の共有
試算表や資金繰り表といった経営状況のデータをオープンにし、今、会社がどれだけ厳しい状況にあるかを誠実に共有します。正確なデータを伝えることで、従業員と同じ目線で話し合うための土台が整います。
ステップ3:見直し内容を整理し、従業員と協議する
一度引き上げた基本給を一律に引き下げることは、従業員への影響が大きく、慎重な対応が必要です。まずは、基本給だけでなく、賞与や各種手当を含む賃金制度、勤務体制などについて、経営状況に応じて見直しの余地がある項目を整理します。ただし、これらも労働契約や就業規則、賃金規程などの内容によっては労働条件の変更にあたるため、変更の可否や必要な手続きを個別に確認する必要があります。
賃金などの労働条件を見直す場合は、変更の理由や対象、期間、従業員への影響を整理し、必要に応じて経過措置や代償措置も検討します。また、業績が回復した場合に賃金をどのような条件で見直すのかについて、あらかじめ方針を示しておくことも、従業員の理解を得るうえで有効です。
個別合意によって労働条件を変更する場合は、一人ひとりに十分な説明を行い、検討する時間を確保したうえで、自由な意思に基づく合意を得ることが重要です。同意書を形式的に取得するだけでなく、説明した内容、従業員からの質問や会社側の回答、検討期間などを記録しておくとよいでしょう。
一方、個別の合意を得られない場合に就業規則の変更を検討するときは、変更の必要性や従業員が受ける不利益の程度、変更内容の相当性、労使間の協議状況などを踏まえ、合理性が認められるかを慎重に検討する必要があります。判断が難しい場合は、実施前に社会保険労務士や弁護士へ相談するとよいでしょう。
4.賃下げ前の経営判断チェックリスト
感情論や目先の資金繰りの焦りだけで賃金の見直しを決めるのではなく、経営者が客観的に自社の現状を把握することが重要です。以下の項目を参考に、自社の状況や説明準備がどこまで整っているか確認しましょう。
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確認項目 |
具体的なチェック内容と判断基準 |
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経営陣の自助努力 |
役員報酬の見直しや経営体制の適正化を検討しているか |
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人件費以外の固定費削減 |
家賃、外注費、不要なサービス契約など、人件費以外の経費を見直しているか |
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遊休資産の活用・売却 |
稼働していない設備、車両、不動産、有価証券などの活用・売却を検討しているか |
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資金繰り対策 |
資金繰り表を作成し、金融機関への相談や返済条件の見直しなどを検討しているか |
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経営情報の共有 |
試算表や資金繰り表などをもとに、経営状況を従業員に説明できる状態になっているか |
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賃金見直しの範囲 |
基本給、賞与、手当などについて、労働契約や就業規則等の内容を確認したうえで、見直しの選択肢を検討しているか |
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復元ルール |
業績が回復した場合に、いつ・どのような条件で賃金を戻すかを説明できるか |
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専門家への相談 |
社会保険労務士や弁護士に、就業規則・賃金規程・同意書の内容を確認しているか |
このチェックリストを用いることで、会社が講じた対策や、従業員への配慮を整理できます。従業員に説明する際も、判断の背景や必要性を共有しやすくなります。
今後の賃金制度を見直す場合は、基本給、賞与、各種手当の役割を整理し、業績変動への対応と従業員の生活の安定の両面を踏まえて設計することが重要です。制度を変更する際は、労働契約や就業規則との整合性も確認しましょう。判断に迷ったり、トラブルの兆候が見られる場合は、社会保険労務士や弁護士、中小企業診断士などの専門家へ早期に相談してください。
5.まとめ:一方的に進めず、資料を整えて専門家に相談する
賃上げ後に業績が悪化した場合でも、会社が一方的に賃金を元の水準に戻すことは、原則としてできません。基本給などの賃金を引き下げる場合は、労使の合意による変更が基本となります。一方、就業規則の変更について合理性や周知などの要件を満たす場合には、個別合意がなくても変更が認められることがあります。
まずは、役員報酬の見直し、不要不急の経費削減、資金繰り対策など、賃金以外にできる経営改善策を検討しましょう。そのうえで、試算表や資金繰り表などを整理し、なぜ賃金見直しが必要なのか、いつまでの措置なのか、業績回復時にどのように復元するのかを従業員に丁寧に説明することが重要です。
判断に迷う場合は、賃金規程、就業規則、雇用契約書、経営資料を準備したうえで、社会保険労務士や弁護士に相談しましょう。あわせて、資金繰りや経営改善については金融機関、商工会・商工会議所、中小企業診断士などに相談し、事業継続と従業員の納得の両面から進めることが大切です。
- 回答者
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中小企業診断士 井尻 郡仁






