明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「野口遵」特許をビジネスモデルにした最初の日本人(第3回)

鴨緑江に巨大なダム建設

カザレー法による新技術を用いた延岡工場の敷地になったのは、愛宕山の東にあたる恒富村(現延岡市恒富)のさびしい湿地帯であった。この工場立地については日窒側の熱意もさることながら、地元の日吉幾治村長や村会議員が積極的に誘致したという背景があった。用地買収に当たっては当初恒富村が支払うという熱の入れようであった。こうした地元の事情も日窒側に有利に働いた。カザレー式アンモニア合成法の導入は、これまでの変成法からの大きな技術転換であり、森矗昶の昭和肥料と激しく競争しながら日窒は国内総生産高の多くを占めるいたった。また化学工業製品生産の分野に進出、さらにビスコース法および銅アンモニア法の人絹製造技術も導入し、野口は同社の発展の基礎を築いた。

このころ、野口の熱い視線は朝鮮半島に注がれていた。化学工業の生命を握るのは電力である。電力は安ければ安いほどいい。朝鮮半島とくに北側には、豊富な水資源があることがわかっていた。着目したのは鴨緑江であった。鴨緑江に合流する長津江という支流があって、その分流・赴戦江を開発し、そこにダムを建設するというのが野口の目論見であった。まず電気事業を興す。計画では赴戦江の上流をせき止め、周囲17里半に及ぶ大ダムを建設し、このダムから上流に向かって30キロの大水送トンネルを通し、これを日本海側に逆流落下させ、発電させようという壮大な計画だった。

大正15年、資本金2000万円で朝鮮水力発電が設立される。目的は硫安工業の大規模生産である。他方、野口は日窒が出資し1000万円の朝鮮窒素肥料を設立した。朝鮮窒素は、後に日窒コンツェルン・野口財閥の中心事業になるのであり、野口には一世一代の大仕事となった。しかし、事業が順調に進んでいたわけではない。昭和2年、工事中のダムは大洪水に見舞われる。被害は甚大で計画の頓挫も憂慮された。野口は現場に赴き、陣頭指揮をとった。そこに硫安が暴落する。昭和恐慌のあおりだ。

朝鮮における軍事工業基地化構想

天候の神様は事業家・野口遵に味方しなかった。ダム工事は進んだ。計画の一年遅れでともかくダムが完成した。しかし、干ばつである。水位は上がらず、20万kw能力の発電は、わずか8万kw。翌年には第二、第三の発電所が完工する。雨が降るかどうか、こればっかりは神頼みだ。危機は硫安工場の操業にも影響が出た。昭和6年。一億円を投じた各工場の建設費など、焦げ付きの恐れさえ出ていた。日窒のメインバンクは三菱銀行だったが、三菱の首脳たちは日窒への融資に慎重になる。硫安暴落、ダムは干上がる、資金は底をつき、野口遵は三重苦のなかで呻吟するのであった。

しかし、日窒の危機を救ったのはまたも戦争だった。日中戦争の勃発だ。硫安工業は戦時においては軍需産業なのである。野口は政府に働きかけた。動いたのは、長州軍閥の総大将宇垣一成だ。宇垣は朝鮮総督府を動かし、朝鮮銀行(戦後の日債銀)を通じ、資金協力の方針を決めたのだ。軍部も野口の事業を「朝鮮における軍事工業基地」とみなし、協力を惜しまなかった。軍部がバックについてくれたことに気をよくした野口は、朝鮮窒素の危機が一段落すると、次ぎの事業計画を発表する。鴨緑江水系全体を開発し、その水力発電により朝鮮北半島全体を工業基地にするという計画だ。

ついでながら、「おらが大将」の愛称で知られる宇垣一成は、長州藩出 身で陸士、陸大を出た陸軍の超エリートで、教育総監本部長、陸軍次官などを経て、大正13年清浦内閣の陸軍大臣に就任してからは、もっぱら政治の世界で生きた男だ。第一次・第二次加藤高明内閣、第一次若槻内閣、浜口内閣の陸軍大臣を務め、軍閥の頂点に立った。浜口内閣のとき、宇垣は陸軍内部派閥の桜会が謀略を練った「3月事件・クーデター計画」に関与し辞職を余儀なくされた。宇垣は「3月事件の黒幕」と目されたのである。しかし、その後朝鮮総督として朝鮮に赴任し、朝鮮の軍事工業化に関わるようになるのは以後のことだ。(つづく)