明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「中部幾次郎」大洋漁業の創業者(第3回)

しつっこい性分

スマートな船体で迅速に動き回る巡航船。幾次郎は巡航船を見て得心した。今でいう焼きダマエンジンだ。ぽんぽんと快適なエンジン音を上げて走っている。どうか——と幾次郎は船大工に向かって聞く。船大工は思い出した。古蒸気缶を和船に取り付け、蒸気船に仕立てる、あの失敗に終わった計画のことを......。幾次郎は、あの失敗を忘れていなかったのだ。さすがに船大工はうなり声を上げた。しかし、幾次郎は決めていた。棟梁頼むと頭を下げた。巡航船のエンジンを押し送り船に取り付ける計画は、すぐに実行に移されることになった。こうなると、松五郎も断るわけにはいかない。よろしゅうおます、松五郎は応える。それにしても幾次郎はしつっこい性分だ。自前の蒸気船を持つ、それが彼の夢なのだ。問題は資金だが、昵懇の魚問屋の主人を口説き、資金を捻出した。明石のアイデアマン幾次郎を信用して魚問屋の主人は融資に応じたのだった。

決断と行動力を身上とする幾次郎は、資金調達にめどをつけると、早速船会社に自ら設計図を描き、こういう船が欲しいと注文した。学問はないが、この男は設計図まで書いてしまうのだ。建造を引き受けたのは、明石の小杉造船所だ。設計図とはいっても、そこは素人のことだ。まあ、スケッチと言った方が正確だろう。小杉造船所の松五郎は腕利きの船大工だが、和船が専門で動力船は初めてのことだ。最初は冗談半分で話を聞いていた松五郎だが、幾次郎の心根に打たれ、引き受けた。しかし、作業は難航した。押し送り船に発動機をつけるだけじゃ——と、幾次郎は言った。巡航船のエンジンは米国製の電気着火石油発動機だ。構造は簡単だが、その分故障が多かった。外洋で故障すれば、えらいことになる。これは致命的な欠陥だ。エンジンだけは、さすがの松五郎にも手が出ない。専門のところに当たってみなはれ——と、松五郎は匙を投げた。

2、3鉄工所に当たってみた。しかし、引き受け手はなかった。船舶用の発動機はまだ未開拓の分野で、どこも経験がなかったからだ。どこも同じ返事だ。ならば、自分で作ってみようじゃないか——と、大胆にもこの男は考えるようになる。周囲は呆れた。しかし本人は本気だった。幾次郎は発動機の研究に没頭し出した。しつっこい性分で、いったん決めると後には引けぬのだ。そうこうしているうちに、日露戦争が勃発した。戦争は一大好況をもたらし、つられて魚業界も活況にわいた。軍需の発注も増えた。こうなると発動機どころではなくなる。ひとまず、発動機の研究は置き、幾次郎は土佐、九州、日本海へと出かけ、不眠不休で魚の買い付けに動き回った。しつっこい性分ではあるが、このあたりはさすが商売人というべきで、気分の切換えは早い。日露戦争の特需で、林兼は本拠地を下関に移す。将来、魚の商売は大陸の関係は重要となると判断したからだ。

変人鍛冶職人との出会い

予感されたのは、以後、買い付けの距離が伸びることだ。漁船に発動機を積み込めば距離が伸びるのはわかっている。日露戦争の行方は五分五分。明治31年1月、難攻不落の旅順陥落、同年3月奉天海戦、5月日本海海戦でバルチック艦隊を破り、国民は熱狂していた。しかし、世間が戦勝気分に浮かれているとき、幾次郎はすでに終戦後のビジネス構想を練っていた。日露戦争は思わぬ商機をもたらした。けれども、それは戦争が終われば泡と消える。いそがなければならぬのは軍需から民需への切換えだ。冷戦が終結したときソ連は民需転換が遅れ、経済は疲弊した。日露戦争が終わってみると、戦争景気に燃えた多くの企業が倒壊したのと、よく似ている。実際、軍需景気の反動を一番最初に被ったのは中小の鉄工業者だった。幾次郎は、そこに目をつけた。発動機の製作で、幾度も足を運び頼み込んだ鉄工所も同じことだ。今度は動く——と、判断した。

幾次郎の判断に狂いはなかった。発動機の原図を持ち、牧田鉄工所を訪ねた。牧田は考え込み、一人の鍛冶職人を紹介した。裏長屋に住む鍛冶職人で、仲間内から変人扱いにされていた男だ。会ってみると、なるほど変人には違いない。しかし、新しいものに挑戦するチャレンジ精神にあふれ、研究熱心な男であるのがわかった。原図を見ながら鍛冶職人は言ったものだ。わけないさ、陸用発動機を縦にするようなもんじゃ——と、意外にもあっさりと言った。そうは言ったものの、心配である。本業の方は使用人に任せ、毎日のように鍛冶職人のもとに通った。二人は意気投合した。完成すれば、日本で一番最初の舶用エンジンとなる。しかし、開発は難航した。ここでもしつっこさを発揮した。その熱心さは変人の鍛冶職人も音を上げるほどだった。開発に着手し、1年余。鍛冶場の床を揺さぶりエンジンが動きだした。長さは14メートル、幅3メートルの和船に、八馬力12トン、速力6ノットのエンジンが取り付けられたのは明治38年暮れのことだった。(つづく)