明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「小林一三(いちぞう)」希代の遊び人事業家(第5回)

宝塚歌劇団と小林一三のことが続く。学生時代に小林が文学を志したことは、すでに書いた。鉄道事業のかたわら取り組んだエンターテイメント事業に、その文学に対する思いがにじみ出ている。ただし、小林は決して趣味に流されることはなかった。若き日の夢を立派な事業に育て上げた。さて、歌、踊り、芝居の要素を統合したオペレッタや、ミュージカル風のレビューショーを、かわいい少女たちが演じてみせるのだから、人気が沸かないはずがない。小林は多くの芸術家を招聘した。なかでも昭和2年、パリから帰朝した岸田辰弥作・演出による『モン・パリ』は未曾有の成功を収め、わが国最初の本格的なレビューとして高く評価されたものだった。続いて白井鉄造の『パリゼット』や『花詩集』が大好況を得てた。とくに『パリゼット』の主題歌『すみれの花咲く頃~』は、女学生や若い女性たちに歌い継がれ、熱狂的な宝塚ファンが生まれた。この間、小林一三自身も筆をとり、創設から大正6年の間に11本の脚本を書いている。

郷誠之助が東京電灯社長就任を要請

小林一三は関西の一実業家として満足するような男ではなかった。経済の中心は次第に東京に移りつつある。小林は将来を考え、東京進出を決断するのは、大正中頃である。そんな小林に声をかけてきたものがあった。雑誌『新家庭』を発行している玄文社だ。人気歌劇団の東京公演を誘ってきたのだった。東京での初演は大正7年のことだ。関東大震災で一時中断を余儀なくされたものの、以後、歌舞伎座や新橋演舞場などで年3回の公演を行うようになる。岸田辰弥作の『モン・パリ』が爆発的にヒットするのは、昭和2年のことだ。自信をつけた小林が常設館「東京宝塚劇場建設を決断するのは昭和5年だ。観客3000人を収容できるその劇場が丸の内に完工をみるのは昭和9年のことだ。いまは建て替えられた、あの有楽町にである。東京進出の基盤を作ると同時に帝国劇場、東京會舘を、さらに昭和12年には大阪梅田に梅田劇場を建設し、さらに映画産業にも進出し東宝映画を立ち上げる。この間、宝塚少女歌劇団は欧米公演を行い、大成功を収め、名実ともに国際的な歌劇団としての評価を得る。

しかし、小林一三の本質は実業家である。彼が手がけたのは、エンターテイメントだけではない。古巣の三井から小林のもとに電話が入ったのは昭和2年春だった。電話に出てみると、相手は三井の大番頭池田成彬だった。東京電灯株(現東京電力)の取締役を引き受けくれないかという。その年、小林は平賀敏が日本簡易火災保険に転出したあと、阪急電鉄の社長職にあった。最初、小林は謝辞した。しかし池田は本気で口説いた。つぶれかけていた箕面有馬電気鉄道を見事に立て直した手腕を買っての要請である。しかも会長には郷誠之助が就任するという。郷は財界の大物。ちなみに、郷は明治14年東大入学後にドイツに留学し、帰国後農商務省に入り、明治24年に日本運輸社長に就任してから、財界に入った人物だ。東京証券取引所理事長を務めたほか、日本財界の総本山というべき日本工業倶楽部の創設に参画し、自ら専務理事に就任するなど、経済界の重鎮である。その郷誠之助までが、社長就任を要請したのである。これは断るわけにはいかなかった。

壮絶な電力戦争

東京電灯の社長を引き受け、小林は唖然とする。前年の関東大震災の打撃で、業績不振に陥っていたこともある。しかし、経営が傾いた原因は、それだけではなかった。原因が放漫経営にあるのは明らかだった。前任の若尾璋八社長が政友会総務を引き受けてた関係から、会社資金を政治活動に派手につぎ込み、経理は乱脈を極めていたこと。東京電灯は合併に合併を重ねた会社で、そのため資産は水増しされ、余分な設備を持ち、送電網は山陰から樺太まで及び、経営陣に経営実態が把握できていなかったこと。さらに日本列島では五大電力がしのぎを削り、競争が激化しているにもかかわらず、顧客サービスは官僚的で評判は散々であった。そんな隙をつき、改革の旗を掲げて市場に割り込みをかけてきたのが、東邦電力の松永安左右衛門だった。電力の鬼——と異名をとった松永は改革の意欲に燃える凄腕の経営者だ。その松永が相手では東京電灯は食いつぶされる。食いつぶされた困るのは出資者の三井である。そこで小林に白羽の矢を立てたいうわけだ。

食うか食われるかの電力戦争。財界も動き、役所も動いた。三井銀行とともに東京電灯に融資をしていた安田銀行の結城豊太郎は、三井の池田や東邦電力の松永に相談した。舞台を設定したのは小林である。こうして両者の合併がなるのは昭和3年のことだ。しかし電力戦争は、これで終息したわけではなかった。両者合併がなり、小林は副社長に就任したが、松永も取締役として参画し、社長は前任の若尾璋八が留任した。このとき実質的に経営権を握り、中部地域への供給権を獲得するため、政界工作を行ったのは、小林であった。その後、三井の信用を失った若尾は失脚し、社長は会長職の郷誠之助が兼務し、中部地域に対する供給権を確保したのを武器に、小林は東邦電力と交渉を重ね、名古屋に築いた拠点を、東邦電力に委託することで、昭和の電力戦争を終息させるのだった。

郷誠之助が昭和8年に社長を辞任したのを受け、小林一三は社長に就任する。けれども電力業界はなお群雄割拠の時代が続き、これでは経営が傾くのも当然である。その上に設備過剰の状態にあった。電力会社間の紛争は、とりあえず商工省と金融界の力を借りて沈静化させた。次の課題は会社の近代化と余剰電力の対策であった。小林はソロバン勘定のよくできる男だ。小林は矢継ぎ早に合理化計画を打ち出した。最初は帳簿記帳の方法を改め、例えば、毛筆による記帳をペン書きとすることや統一帳簿を作り、記帳方法を一新させた。いまでいえば、パソコンを職場に持ち込むほどの驚異的な事務合理化を実現したのであった。さらに人員合理化に着手する。業界関係者が評価したのは顧客サービスの向上であった。全国に広がる営業網を整備し、地方分権をはかり、北海道や樺太の電力事業を整理統合し、子会社化するなどの措置をとった。これにより借金経営を脱し、昭和10年には東電経営を立ち直らせることに成功する。(つづく)