明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「森下博」広告宣伝で「仁丹」を世界に広げた男(第4回)

森下仁丹の経営手法-1人1業

森下は信義にこだわる経営者であった。例えば、その販売方法にも、それはよく現れている。森下は創業当初から「製品生産」と「製品販売」をきっちりと分け、小売りは全国のタバコ屋で、卸は代理店以外にはどんな好条件でも販売しなかった。そうしたのは「大代理店主義」を一貫してとり続けたからである。森下仁丹の大代理店は、関西では仁平を筆頭に小林、高橋に決め、関東では大木、玉置の5代理店に限定した。売ってもらえるからこそ、森下仁丹は生きられるのであるという代理店に対する信義が、そうした販売方法を採ったのである。代理店の選定も商品ごとに細かく決めていた。例えば、仁丹体温計にあっては当初、藤本商店だけであったが、その後、東西4代理店に拡大したのは例外だった。仁丹歯磨きは山桝商店一社のみであった。この基本方針は戦時統制経済のもとでも多少の変遷はあったが、今日でも踏襲されている森下仁丹の販売戦略である。

それは小売店や代理店と「共存共栄」から発する販売戦略でもあり、森下の経営哲学の根幹をしめる「信義」という考え方にもとづくものである。その考え方は同時に「1人1業・本業専念」という1業主義に結びつき、森下仁丹の社是となる。森下は明治38年に仁丹を発売し、爆発的な売れ行きをみせ、当時の価格で10万円以上の売り上げを収めたときも「1人1業」を守り、決して多角経営に走らなかった。ちなみに、10万円の売り上げを上げたとき、森下仁丹の主力商品はわずか4種類に過ぎなかった。その「1人1業主義」が効を奏して、看板商品の仁丹だけで、発売2年目で19万円、発売3年目では実に35万円の売り上げを突破し、この種の商品としては史上空前の売り上げを示したのであった。森下は「1人1業主義」を墨守し、小売店や代理店を大事にすることを、終生代わらぬ経営の基本方針としたのであった。

取引銀行の倒産で苦境

森下は中国大陸への進出を手始めに、次々と海外市場での展開を図って いく。明治45年にはボンベイ支店を開設し、ジャワ仁丹公司を設立するのは大正5年のことだ。さらにブラジルの奥地にまで仁丹が販売された。森下は仕向け地ごとに外装や容器に細心の注意を払った。ジャワ向けにはジャワ向けの、インド向けにはインド人好みの、中国向けには中国人好みのデザインを採用している。文化や生活習慣が異なれば、同然ながら好みも変わってくる。そうした情報を細かく集め、それぞれの仕向け地に対応するデザインを施し輸出したのである。森下は「社会奉仕・広告益世・海外発展」を社是として、とくに貿易においては、小資源の日本は貿易で生きていかねばならぬと力こぶをいれ、こうして森下は仁丹を『メイド・イン・ジャパン』として、世界に広めていくのであった。

森下仁丹が危機に直面するのは昭和恐慌である。第一次世界大戦の戦争景気の反動から経済は低迷を続け、モノを作ってもさっぱり売れず、いわゆるデフレが深化するなか、そこに金融恐慌が襲った。台湾銀行とつながりの深かった鈴木商店が倒産に追い込まれ、渡辺銀行の倒産で取り次ぎ騒ぎが起こり、世情は騒乱状態に陥った。世に言う昭和金融恐慌の勃発である。これがため若槻内閣は総辞職する。業績が順調に推移していた森下仁丹もその荒波に巻き込まれたのである。きっかけは取引銀行であった第15銀行が、この金融恐慌のさなかに倒壊に追い込まれたことだ。元来、森下は取引先の拡散を避け、創業以来30余年に渡り、第15銀行とつき合ってきた。それは「人間の信用と信用関係」が事業の根幹をなすものと考えるからであった。それが災いしたのである。(つづく)