明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「金子直吉」鼠と呼ばれた名番頭(第4回)

金子直吉が取った経営手法は多角経営で、多角経営は借金経営でもあった。 つまり他人資本に依存し、次々と工場を立て、その信用力で経営を拡大するや り方だった。景気が好調なときには、面白いように経営規模は拡大していく。 しかし、景気が後退した局面では借金のつけが経営に重くのしかかり、業績悪 化を招く両刃ともなる。第一次大戦の戦時景気も沈静し、そこに関東大震災が 首都を襲った。時代は大正から昭和に移った。けれども昭和に入っても、景気 はいっこうに回復の兆しをみせなかった。それどころか、経済はデフレの様相 を示し、モノを作ってもさっぱり売れず、そこに金融危機が襲った。合名会社 鈴木商店の資本金は5000万円、持株会社鈴木商店は同8000万円。しか し、借金はすでに10億円を超えていた。合名会社と持株会社の資本を集めて も1億3000万円に過ぎない。借金の大半は台湾銀行だった。おりから政府 は金融制度改革の一環として金輸出解禁方針を打ち出していた。これが市場を 混乱させた。昭和恐慌の始まりである。

天才の悲劇

銀行はばたばた倒れた。台湾銀行の経営危機もささやかれていた。政府は銀行救済に動き出した。これを野党は「財閥銀行や台湾銀行の救済ではないか」と攻撃した。いつの時代も政府と野党とのやり取りは同じことを繰り返すもので、国会審議は混乱をきわめ政府は無能無策を曝すだけだった。台湾銀行の救済問題が浮上するなかで、大口債務者である鈴木商店の扱いが問題となった。いうまでもなく鈴木商店は巨額な債務を抱えていたからだった。政府は台湾銀行の不良債権処理を急いだ。平成の金融危機とよく似ている。

台湾銀行は国策銀行である。国策銀行を潰すわけにはいかぬ。まず台湾銀行自身の基盤を強化すること。再建過程では一切の新規融資は認めぬこと——などを骨子とする貴族院の決議案が採択された。台湾銀行から鈴木商店が借り入れている資金総量は約2億円に達していた。融資が中止されれば、倒産に追い込まれるのも当然である。その上に「今後鈴木商店に対し一切の貸出を中止し、従来の貸金を至急取り立てるべし」とする最後通告をつきつけられる。鈴木商店の資金規模からいえば2億円というのは、それほど大きなものではない。しかし、手形の決済という面からいうなら別な意味を持つ。決裁が不能なら倒産だ。経営危機はいよいよ現実味を帯びてきた。

鈴木商店の台湾銀行依存の借金経営体制は、鈴木家の持株支配体制と超多角化戦略を両立させることを要とするものであった。整理のときには借金総額約5億円のうち台湾銀行が3億8000万円を負うことになった。借金依存経営については、内部に批判がなかったわけではない。例えば、資金調達を銀行にだけ頼らず、合名会社の株式を公開し、広く銀行以外からも調達すべきだとする意見だ。また系列事業会社の株を売って、これを借金の返済にあたるべきだする意見も出ていた。しかし、株式公開は直吉の鈴木家に対する忠誠心からも許されぬことであったし、直吉自身のワンマン体制からしても、とうてい受け入れがたいものであった。株主に配当するぐらいなら、銀行に金利を払った方が増しだと直吉は一喝したものだった。彼の考えは、資金があれば一人でも多く雇い、国家のために仕事をすることだ。なるほど事業家としての直吉の才覚は誰もが認めるところだ。余人にはまねしがたい商売の天才でもあった。それは彼が手がけた事業を見れば、その先見性は明らかだ。しかし、鈴木家に対する忠誠心から株式公開を渋ったのだとしたら、そこに経営者としての限界が見える。というよりも天才の悲劇といえるかもしれない。(つづく)