闘いつづける経営者たち

「田邊耕二」株式会社ユーシン(第3回)

03.どうする後継者

ユーシンにとって、最大の問題は79歳となった田邊耕二会長兼社長の後継者がいないことだ。田邊会長兼社長は1978年(昭53)に社長に就任。海外事業の拡大や大型M&A(合併・買収)などに最前線で取り組んできたが、後継者を育てることはできなかった。そこで外部人材に活路を求めて10年には一般公募で社長を募り話題を呼んだが、候補者は退任。後継者探しはふりだしに戻っている。

社長を公募、エリート官僚を採るも…

社長選定の変遷

社長候補求む!-。同社が10年7月に全国紙に掲載した広告の反響は絶大だった。応募者は1700人以上。自動車業界に限らず、業種や性別、国籍などバラエティーに富むバックグラウンドを持つ人々が集まった。条件は語学が堪能で、頭のいい人。自ら海外を飛び回り、海外での事業拡大を進めてきた田邊会長兼社長は当時76歳。社内に後継者はなく、健康に問題を抱えていた。一刻も早く海外ビジネスを引き継げる人材が欲しかった。「年功序列や血縁で選ぶより、よりよい人材をとれる」(田邊会長兼社長)という考えもあった。

選考を経て11年5月までに入社した社長候補は外務省出身でニューヨーク総領事館総務部長だった八重樫永規氏(当時48歳)と、副社長候補はソニー出身でフェリカネットワークス取締役だった丸子秀策氏(当時48歳)。だが、12年5月に八重樫氏は退社し、13年には丸子氏も取締役を退任した。民間企業や自動車部品メーカーの経営トップの素養を身に付けることは想定より難しかったと見られ、公募による後継者探しはあっけなく終了した。

ユーシンの後継者問題はなにも当時始まったことではない。さかのぼること7年前の06年4月、同社は後任の社長探しを条件に米系投資ファンドのRHJインターナショナル(旧リップルウッド・ホールディングス)から20%の出資を受け入れた。そして2カ月後、リップルウッド側はスイッチ事業を手がける旧日産系部品メーカーのナイルス元社長の竹辺圭祐氏を新社長として派遣。だが、わずか1年3カ月で竹辺氏は辞任し、田邊氏が社長に復帰した。

ちなみにその後、ナイルスは仏ヴァレオに買収された。そして3月末までにユーシンはヴァレオのキーセット事業を取得する。紆余曲折を経たが、旧ナイルスを手に入れて規模拡大には成功したと言える。

地頭のよさと忠誠心

グラフ:競合他社との比較

田邊会長兼社長は30年以上におよぶ経営トップとしての在任期間について、「苦しかったこと、辛かったことは一度もない。最も印象に残るのは30年以上前に海外工場をつくったことと、完成車メーカーに子会社になってくれと言われたが断ったこと。当時の決断がなければ今のユーシンはない」(同)と振り返る。強烈なリーダーシップで企業成長を続けてきたため、いい意味と悪い意味の両方の結果があらわれている。

本社社屋写真

後継者探しはふりだしに戻り、ヘッドハンティングによる獲得を目指す。「やはり会社を辞めてから(当社に)こようとする人はよくない。現在所属している会社で有望視されている人を引き抜きたい。必要なのはただの頭の良さではなく地頭(じあたま)がいいことと、会社へのロイヤリティー(忠誠心)だ」(同)。現在、候補者はいないが、「年だから早く見つけたい。偶然のチャンスもあるだろう」(同)。後継者探しの奔走は続く。

プロフィール

田邊 耕二 (たなべ こうじ)

1934年(昭9)生まれ。東京都出身。56年に青山学院大学経済学部を卒業し日野自動車に入社。61年に退社し同年4月にユーシン入社、65年2月同社取締役に就任。以後、76年2月に同社代表取締役専務、78年2月より代表取締役社長を務める。06年7月に最高顧問に就任も、08年2月に代表取締役社長に復帰。11年8月より代表取締役会長兼社長。独自の理論に基づいた合理的な経営を追求し、実践してきた。「すべてを自分で行うのではなく、経営は人をどれだけうまく使うかが重要だ」と話す。最近では自らの経営の視点をまとめた書籍「超合理化経営」(幻冬舎)を執筆。

企業データ

企業名
株式会社ユーシン
Webサイト
資本金
120億1643万円
所在地
東京都港区芝大門1-1-30
Tel
03-5401-4670
事業内容
自動車・産業機械用及び住宅関連の各種システム機器と制御装置、電装装置、部品などの製造販売
連結売上高
611億円(2012年11月期)

掲載日:2013年4月8日