明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「小林一三(いちぞう)」希代の遊び人事業家(第1回)

大正・昭和の実業家は仕事もしたが、遊興の巷でよく遊んだ。なかでも小林一三は遊び上手で知られた実業家だ。小林は関西に基盤をおき、戦前戦後にかけて活躍した実業家だった。小林一三といえば、あの華麗な宝塚歌劇団を思い浮かべられる方もおられるかもしれぬ。阪神タイガーズのホームグラウンド甲子園球場を、小林が今世に残した事跡のひとつに数えられる方もあるかもしれぬ。事業家として名をなしたのは、やはり鉄道事業という方もおられるだろう。どれも正しい。小林一三という事業家は実に多様な顔を持つ。慶応を出ての人生の振り出しは銀行員だが、鉄道事業、宅地開発、百貨店、映画、電力、肥料など実に多くの事業を手がけ、成功に導いた。その全盛期は「今太閤」などと呼ばれるほどの権勢を誇ったものだった。しかし、学生時代の彼は文学を愛し、小説を書き、詩文を書き、生計を立てようと考えた時期もある。文学に対する志しは事業家として名をなしたのちも忘れることはなかった。名文家としても知られる小林は、宝塚歌劇団のために書いた数多くの脚本と、名著『小林一三全集』全7巻を残している。この人物が事業で成功をおさめたのは作家的な構想力にあったのではないかと思うことがある。

出社拒否症の社会人スタート

自伝から年譜をみてみると、実に華麗な一生であったことがわかる。主要な経歴を拾ってみると、阪神急行電鉄社長、東宝社長、東京電灯(現東京電力)社長などの要職を歴任したほか、第二次近衛内閣の商工大臣や、戦後においても国務大臣などを務め、冷戦下にあっては東西融和に動くなど、経済界ばかりでなく、外交や政界においても、華々しい活躍をしている。しかし、彼の一生を子細にみていくなら、必ずしも順風満帆な人生であったわけではない。幾度も挫折を味わい、挫折を乗り越えての成功の道であったのである。

さて、小林一三は明治6年1月、豪農の子として山梨県韮崎に生まれた。一三が生まれたその年に母いくのは逝く。産後のひだちが悪かったからだ。父勘八は養子であったため離縁。そのため一三は父母の愛情を知らずに育った。人なっこさ、寂しがりやで、無類の人間好き——はそんな環境に育ったからなのかも知れない。すこぶる頭の回転の速い少年だったと、評伝作家は書いている。地元の中学を終え、16歳で慶應義塾に入る。しかし慶応時代の一三は文学に情熱を燃やした。小説を書くには、新聞記者が早道と考えたのだろう。卒業すると実家の反対を押し切り、都新聞を希望するが、あえなく落ちる。これが最初の挫折だ。周囲の薦めで三井銀行に入るのは明治26年だ。しかし、サラリーマンとしては落第だった。というのも三井銀行入行が決まっても出社せず、ぶらぶらする毎日が続いていたからだ。「銀行には興味がもてなかった」と自伝には書いている。

銀行は性分に合わなかったということだ。しかし、銀行ではソロバンと帳簿を覚え、秘書課に勤務し、そこで野村利助や中上川彦次郎などと出会ったことが事業家としての小林の目を開かせる。東京秘書課での勤務は半年ほどで小林は大阪支店勤務を命じられる。大阪支店で一人の重要な人物と出会う。支店長の岩下清周だ。大阪時代に小林は花柳界遊びを教えたのは三井の先輩岩下だ。遊び上手なあの洒脱な風貌は、このときに養ったものだ。岩下は小林の才能を愛した。自分の人生でもっとも大きな影響を与えた人物——と自伝に書いている。ついでながら岩下清周は長野松代の人で、東京商法講習所で学び、三井物産の欧米勤務を経て、三井銀行に入り、小林との邂逅は大阪支店長時代のことだ。

耐えがたい憂鬱の時代

同じ大阪支店にいた中上川彦次郎は慶応の出で、小林には先輩にあたる。しかし、岩下は中上川と意見が合わず、三井を去り、藤田伝三とともに北浜銀行を創立する。岩下は三井を去るに際して、小林を誘っている。小林は迷った。迷っている小林は、名古屋支店に左遷される。岩下との関係が疑われたのだ。名古屋支店で、もう一人小林の生涯に重要な影響を与える人物と出会う。のちに大阪支店長を務め、小林とともに箕面有馬鉄道軌道の立ち上げに参画する支店長の平賀敏だ。平賀は「小林は遊び人」という芳しくない噂を聞いていた。なるほど、名古屋支店に転勤してきてからも、たいそうな遊びをしていることを知る。銀行員は身持ちが固くなければならぬ。平賀は周囲とはかり、縁談を進める。平賀の仲人で所帯を持つのは明治32年のことだ。小林は大阪に愛人を囲っていた。結婚しても愛人と切れぬ夫に激怒し、新妻は実家に帰る。

大阪の愛人はコウという才女だった。自分と所帯を持つ男は絶対に出世すると奇妙な信念を持つ女だった。そして二人は所帯を持つのだった。小林は「彼女のすべてに満足しておった」と、自伝にぬけぬけと書いている。平賀名古屋支店長のもとで小林は、貸し付け課長や営業部長を務め、銀行員としての手腕を発揮した。平賀の推挙で箱崎倉庫に転出するのは明治33年のことだ。肩書きは主任。ところが着任すると、副主任。今度は本店調査課に左遷。小林は「耐えがたい憂鬱の時代」と書いている。この間に三越に副支配人として転出する話も出た。小林もその気になった。借金までして三越株を買ったのだから本気であったのは間違いない。しかし、この話は立ち消えとなる。耐えがたい憂鬱の時代はまだ続いていたのである。三井に入って15年がたつ。小林は三井にいてもたかがしれている——と、考えるようになっていた。そんな小林に誘いの声がかかる。

明治45年のことだ。小林一三は35になっていた。恩義のある先輩岩下清周の誘いで証券会社の立ち上げに参加することになり、小林は大阪に戻った。三井15年で、小林は多くのことを学んだ。よき先輩を得たこと。銀行員として経営の実情を学んだことだ。証券会社設立を構想した岩下は関西では切れ者として通っている。構想はいい。しかし、岩下は人びとの考えの三歩も四歩も先をゆく人間だ。周囲の連中は息切れしてしまう。そんなわけで証券会社構想は挫折する。三井を辞めた小林は困った。そんな小林に声をかけたのが三井物産の飯田義一だ。飯田は三井物産の大重役だ。箕面有馬鉄道軌道の設立を、小林に頼んできたのだった。鉄道事業など皆目検討もつかぬ。しかし、小林はこれを引き受けることにした。これは小林一三の一大転機になるのだった。(つづく)