闘いつづける経営者たち

「矢野 博丈」株式会社大創産業(第2回)

9度の転職

矢野の経歴は、まさに「七転び八起き」だ。借金を抱え、9度の転職—。

「自分の人生はもう終わったというところまで、追いつめられた」と思ったこともあった。自信家で、「社会で出世して、ひとかどの人間になれる」と自負していたが、数々の挫折を味わい、この自信は打ち砕かれた。

大学を卒業すると、学生結婚した妻の実家の魚問屋に入った。ハマチの養殖業を兼ねていて、馬車馬のように働いたが、事業は軌道に乗ることはなかった。700万円の借金を抱え、トラックに家財道具を積み、夜逃げ同然で東京にたどりつく。このとき「運がなかった」と悟ることになる。

東京で最初に手掛けたのは、書籍のセールスだ。給料は歩合制だったので、かなり稼げると期待していたが、本は一向に売れなかった。「売るぞ」と意気込んでも、24人のセールスマンのうち22番目くらいの成績だった。ここで、「運もないが、能力もなかった」と思い知ることとなる。

書籍のセールスを辞めて、次に始めたのは「ちり紙交換」。皆が敬遠するエレベーターの無いビルを回って、こちらは大成功した。そんな矢先に広島の父親に呼び戻され、資産家の養子にならないかという誘いを受けた。順調だったちり紙交換を辞めて広島に戻ったが、養子の話は半年で御破算になった。

困っていると、医者をしている義兄から、所有しているボーリング場で働かないかと誘われた。ボーリング場を管理するかたわらで、移動販売を始めた。バッタ屋でタオルやシャツを仕入れ、義兄から車を借りて団地を回って売り歩いた。これが、現在のダイソーの起点だ。

その後も、何度か転職を繰り返したが、やがて移動販売の仕事に落ち着いた。それからは寝る間も惜しんで夫婦で働き続ける日々が続いた。値札を貼る手間ももったいないと、100円均一を導入した。100円ショップの始まりである。大きく創るという願いを込めて社名を「大創産業」とした。

「これも100円?」「本当に100円?」

100円均一にはしたものの、客の中には、「安かろう悪かろう」、「安物買いの銭失い」という感覚があった。矢野社長は、ここで「利益を度外視してでも、売れるものを」と、品質の良い商品を集めた。

「本当に100円?」、「これも100円なの?」。客の反応は疑心暗鬼から驚きへ変わっていった。

売上げが上がり商品が多くなればなるほど、積み込み、陳列、撤収作業がきつくなり、社員の疲労は日を追うごとに大きくなっていった。

そんな時、とあるスーパーから、固定の店舗で展開しないかと誘われた。スーパーの4階での営業は集客が見込めなかったが、社員の疲労を考えて、固定の店舗で事業を行うことに決めた。

実際に営業を始めてみるとどうだろう。客は4階まで足を運び、スーパーの来客数も増えた。矢野は固定の店舗でも十分営業できることを実感し、常設店の展開に着手することにした。現在のザ・ダイソーの始まりである。

その後は店舗数を増やし、日本全国に出店した。広く出店し、全国の人にまず商品を見てもらおうという狙いだ。多いときは月に50〜60店を出店し、2500店舗に至るまでになった。

2001年からは、海外出店も精力的に行った。台湾を皮切りに、韓国、シンガポール、タイ・・・、ヨーロッパや北米、中東にも出店し、現在、海外店舗は500店というグローバル企業に成長した。

儲けようなど大それたことを思うな

こうした成長の影には、2度の大きな危機を乗り越えた経験がある。1度目は、倉庫の火事に遭ったとき。倉庫、商品、トラック、すべてが焼けてしまった。このとき矢野社長は、無我夢中で、バケツの水で火を消そうとしたらしい。

「火事とはもの凄いものです」。いろいろな局面を乗り越えてきた社長だが、さすがにこのときばかりは大きな痛手を負った。この後、1カ月、ふて寝が続いたという。

2度目は、倒産しかけたとき。倒産を目の前にした異常な状況に、一週間、こげ茶のような紫のような小便が出たという。「今週くらいに死ねるかな」、「死ねば楽になれるかな」という考えも浮かんだ。

なんとか倒産は免れたが、このときの尋常でない体験と、危機から立ち上がった経験が、後の経営哲学に大きな影響を与えたのは言うまでもない。

「大きなことを願うな。儲けようなど大それたことを考えるな。生きられればいい」という考え方が生まれ、社員にも、「私たちは能力など無いのだから、儲けようなど大それたことを思うな。売れればいい。食えればいい。生きられればいい」と、言い続けている。

求めない。気負わない。といったシンプルな信条が功を奏して、「ひたすら頑張る」社風が徐々に根付いていった。規模が大きくなった今も、それは変わらない。

プロフィール

矢野博丈 (やの ひろたけ)

1943年生まれ。66年中央大学卒業後、学生結婚した妻の実家のハマチ養殖業を手伝う。3年後に倒産し、借金を抱え夜逃げ同然で上京。その後、書籍の営業やちり紙交換など転職を9回重ねる。ある時、移動販売に集まった人だかりを目にして、移動販売業を始めることに。「矢野商店」を立ち上げ、夫婦で一心に働き、値札を貼る手間も惜しいと、100円均一を導入した。社名も大きく創るという願いを込めて「大創産業」とし、質の高い商品展開に力を注いだ。移動販売を続けるなか、とあるスーパーから出店の誘いを受け、固定の店舗での展開を始める。固定の店舗での集客、売り上げは順調で、1991年に直営第1号の「高松店」をオープン。その後、着々と店舗を増やし続け、今では毎月、20〜30店舗を新しくオープンするまでになった。近年は、100円以上の高額商品の扱いも始めている。

企業データ

企業名
株式会社大創産業
Webサイト
設立
1977年12月
資本金
27億円
従業員数
400名
所在地
〒739-8501 東広島市西条吉行東1丁目4番14号
Tel
TEL:082(420)0100(代表)
事業内容
100円ショップ ザ・ダイソーのチェーン展開
売上高
3380億円(2008年3月期)

掲載日:2009年4月13日