明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「福沢桃助」電力業界の奇才(第4回)
政治家としての福沢桃助
祝賀の席上で桃助は謝辞の演説を行っている。その演説が人を食っている。演説の最後に、こう言ったものだ。今度アメリカに来るときは、カネを貸しに参ります——と。会社が潰れるかどうかの瀬戸際に立たされている経営者にしては、ずいぶん剛胆な物言いである。タフト前大統領、ヘール上院議員、モルガン財閥の大番頭ラモントらを前にしての大演説だ。場内を爆笑させたのは、いうまでもない。カネを貸すのがビジネスなら、借りるのもビジネスだ。そうであるなら、互いに平等だという思いが桃助にはあった。桃助は強運の男だ。日米関係が緊張している最中のことだ。常識的に考えれば、アメリカで外債を発行することなど成功するはずがないと考えるのが自然だ。桃助の人生において、外債発行の快挙を成し遂げたことは、事業家としての総決算であったといえるかもしれない。しかし、事業がすべて順風満帆であったわけではない。振り返れば、挫折の連続といっていいかもしれない。桃助は帰国の船上で自省をしている。
桃助は山ッ気の多い男だ。桃助45歳のときだ。西園寺公とのつき合いから政治に興味を覚えて千葉県から代議士に出たことがある。しかし、長続きはしなかった。議会での桃助の演説が残されている。当時、マスコミを賑わした「郵便会社事件」を追求する演説だった。政治家と官吏がグルになった汚職事件なのだが、しかし、事件の本筋を追求するというよりも、相手が困惑する顔を見て、喜ぶという態度だった。議会で自らの国家観を示すことも、掲げるべき政策課題もなく、国が進むべき道を議論することもなかった。政治家としての、桃助は残念ながら記録にとどめるような仕事はなにもしていない。やったのは議会をからかっただけだ。あの程度のことではないか、政治なんかオレにもやれる、そんな風に軽く考えていたのだ。要するに、いまのタレント議員と同じようなもので、売名だけが先立ち、政治にかける理念など何もないのだから、早々に身を引くのも当然であったかもしれない。そんなためか、桃助に対する世間の評判は芳しくなかった。
桃助の金銭哲学
このころまで、桃助の思いは一筋である。カネを儲けること、桃助の行動はすべてがそこに集約される。日露戦争のとき株価に着目し、株式投資に走ったのも、そんな人生哲学からだった。しかし、他人と少し違うのは、株でボロ儲けをした連中が放蕩の限りをつくし、あるいは無謀な投機を繰り返した結果、無一文になった連中が多いなか、桃助は早々と見切りをつけ、撤退したことだ。
桃助は機を見て敏な男であった。目指すは、常に巨大な事業である。株屋は株屋に過ぎぬ、自分は公益的な大きな事業を起こす、三井や三菱のように巨大な財閥を作り上げてみせる——桃助のカネ儲けとは、そのようにスケールが大きいのである。その考え方は彼の数少ない著書『家憲物語』によく出ている。「私は貧乏人の家に生まれたから、富者に対する反抗心が強く、金持ちになって金持ちを倒してやろうと実業界に発心した。名古屋、九州で水力発電をはじめたのも、東京では東電が頑張っていて向こうが晴れず、いまさら三井、三菱に頭を下げるのも癪だったので、田舎落ちしたのだが、時勢で電力の需要が高まってきたので、順調にいくようになったわけだ」と、電力事業にかける意欲を、桃助は熱っぽく語っている。大財閥なにするものぞ! という心意気が伝わってくる。桃助が手がけた事業は電気事業ばかりでなく、多方面に渡る。三井、三菱を向こうに張っての、金持ちに対する反抗心が、桃助を奮い立たせたのである。
肉親の情に薄かった桃助
しかし、桃助は多くの事業を手がける反面、多くの企業を倒産させている。岳父諭吉から2万5000の借金をして起こした丸三商会も、敢えなく倒産した。丸三商会が手がけた北海道から鉄道の枕木を輸出する仕事は順調だった。倒産の原因は三井銀行が丸三商会の為替取扱いを、断ったことにあると桃助は信じているようだ。株屋——との評判を三井銀行が耳にして、より慎重になったのだ。企業が倒産する事態のなかで、企業経営者は悲痛のどん底にたたき込まれるのは今も昔も変わらない。それが桃助の独自の金銭哲学に磨きをかけたのかもしれぬ......。そして着目するのが電力事業である。
彼が終生の事業と考えた鉄道事業は、9割以上が国有化されて、入り込む隙間がなかったため、事業は成功しなかった。電力事業でも、東京でも大阪でもなく、木曽川に着目するのは、三井・三菱らの財閥が東京で頑張っていて、入り込む余地がなかったからだ。しかし、電力事業に関わりを持つようになるのは、松永安左エ門との邂逅がある。松永は桃助の事業を引き継ぎ、電力業界で重きをなすのはご承知の通りだ。大同電力の再建に道をつけた桃助は昭和3年に実業界からの引退を声明する。肉親との縁が薄かった桃助が、実妹で歌人の翌子と心を通わせるようになるのは、晩年のことだった。
経営者には必須の能力
実業家として福澤桃助を見たとき、やはり評価すべきは、アメリカからシンジケートローンを引き出したことである。日本では長期の借金ができないと判断するや、すぐに行動を起こして、ニューヨークに飛ぶ身軽さと決断力。大小問わず、経営者には必須の能力というべきであろう。それは努力したり、勉強したりして、身につけた能力ではない。生来のものである。桃助は決して努力型の人間ではなかった。どちらと言えば、遊興の巷で遊び惚けるタイプの男だ。もちろん、遊びもしたし、遊興に大金をばらまいた。しかし、それを決然とやめる勇気を持つ男でもあった。世間は桃助を坊ちゃんとみなしたが、決して坊ちゃんなどではなかった。自分で運命を切り開いた男だ。
桃助は自らの初志を「金持ちになることだ」と堂々と語っている。しかし、それで誤解を受けた節もある。実は桃助は内省的な男であった。別な言い方をすれば、桃助は自分の顔を自分で作り直し、即物的な処世観を造形したのである。内省的な面は、歌人として知られる実妹翌子との交流のなかに現れる。翌子は即物的な兄を嫌った。しかし、翌子は兄を理解するよう努めた。肌合いの異なるこの兄弟は、桃助の晩年、静かな語らいを持つようになる。桃助の行動にひたむきなものがあった。それが翌子には、自らの歌人の生き方と重ねながら、求道者としてのもうひとつの桃助の顔をみたに違いない。