明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「福沢桃助」電力業界の奇才(第1回)

福沢桃助は福澤諭吉の娘婿だ。義父に劣らず、桃助は秀才の名を欲しいままにした男である。しかし、学業は継がず、桃助は実業の世界に生きた。学業の世界では義父の存在があまりにも大きすぎたからなのかもしれない。桃助は日本男子としては、異形といってよいであろう。いくつもの事業に 手を出し、失敗した。義父は学問を通じてしか世の中を語らなかったが、桃助は実業の世界で名を上げようと思った。偉大な義父を持ったおかげで、その分必要以上の苦労を背負うことになる。福沢桃助には多くの伝説が残されている。たぐいまれな知恵者であり、果敢な行動の人であり、天才的ともいえる事業家であり、そばにいるだけで愉快になり、ともかく破天荒な男だった。こんな男であるのだから、後世の人たちが伝説を書くネタに事欠かなかったに違いない。

福沢諭吉に見込まれての婿養子

伝説の一つは、福沢家に婿入の話だ。ご承知のように福沢諭吉には嫡子 はなかった。そこで福沢は慶應義塾の塾生のなかから、これというメガネに適う人物を探し、娘ふさの婿殿に、と考えていた。明治20年春のことだ。おりしも運動会が挙行され、学生たちはグランドに集合していた。ライオンの図柄をシャツに染め抜き、傲然とグランドに立つ、一人の学生に目が止まった。同席していた福沢の妻や、娘のふさも、その学生に釘付けになった。その男が岩崎桃助、すなわち後の福沢桃助だ。眉目秀麗のなかなかの男ぶりだ。福沢も彼の妻も、すっかり気に入った。さっそく福沢は、この学生の素性を調べてみる。抜群の成績で、勤勉な学生らしく素行にも問題なかった。福沢は人を介してさっそく「福沢家の婿殿に......」と、交渉を始める。往時の福沢といえば、学生や書生にとっては西欧知知識の最高峰だった。その福沢に見込まれての婿養子だ。

今風に言えば「ギャクタマ」というわけで、悪かろうはずのない話だ。 しかし、桃助は断固として断った。男子たるもの道は自分で拓くもの、福沢先生と言えども、養子になるなど、絶対にあり得ぬことです——と、立派な口上を延べ、謝絶したものだった。この話を聞き、諭吉は惚れ直した。どうしても婿にと思い詰めたのは、娘ではなく舅の方だったのだ。福沢は人を介し、どうだろうか、アメリカに留学するつもりはないか、と桃助に持ちかけた。学者になるにも、事業家になるにも、一流と呼ばれるからには、留学は必須の条件だ。キャリアが大事なのは昔も今も変わらない。そのキャリアアップのために、留学費用を出そうではないか、言うのである。桃助には願ってもない話だ。わかりました、よろしくお願いします——と、意外にもあっさり頭を下げた。仲介人は、ただし一つ条件がある——と切り出した。ある人の婿養子になることだと言った。桃助はわかっていて、この条件を飲んだ。アメリカ留学の旅に出るのは、桃助19歳のときだった。

奇抜な作戦で西園寺公に接近

いま一つの伝説は、西園寺公望との関係である。西園寺はたぐいまれな 政治家だ。宰相として手腕を発揮しただけでなく、明治・大正・昭和と天皇の側近として隠然たる力を誇示し、元老として権力を振るった。西園寺公の推挙がなければ、どのような実力者であろうとも、組閣できないと言われたほどだ。その西園寺に桃助は、接近を試みた。友人たちは人を介し、西園寺と面談する機会を作ろうかといった。福沢諭吉の娘婿だ。その気になれば、仲介する人はいくらでもいた。しかし、桃助はこれを断った。ある日のこと、西園寺は馴染みにしている新橋の料亭の門をくぐった。最高の権力者であり、カネもふんだんにあって、粋な遊び人としても有名を馳せた西園寺のことだ。芸者衆にもてないはずもない。ところが、その夜に限って、一人も姿を見せないのである。誰かが芸者衆を総揚げしているらしい。女将が耳打ちするには、福沢桃助なる若者が、別座敷でドンチャン騒ぎをやっているという。さすがの元老も撫然とした。

西園寺公が女将を相手に撫然として杯を交わしているところに、芸者衆 がどっと入ってきた。何ごとかと、驚いたのは西園寺公だ。実は桃助が頃合いを見計らい、西園寺さんの座敷にいくがいい、花代はオレの方につけておくから——と、送り出したのだった。さすが西園寺公は粋人だ。桃助のたくらみをすぐに見破り、こんなイタズラをするとは、若造にして面白い男だ、と女将に言いつけ、桃助を自分の座敷に招いたのである。事業を興すには、権力者に近づくのが一番である。現代と違って、何をやるにも政府の許可が必要だったからだ。最高権力者から知遇を受けることは、事業を進める上で何かと好都合だ。第三者を介してでは、心をつかめない、いや、名前すら覚えてもらえないかもしれない。奇抜な行動に出たのも、そのためだった。これは見事に成功した。以来、桃助は神奈川興津の西園寺の別荘・坐漁荘へ、木戸御免で通える一人になった。この伝説、実は桃助自身の創作という説もあるが、こういう類の逸話というのは、真偽を確かめるすべはない。しかし福沢家に婿入りしたことも、西園寺公とは親交を結び、終生身近にあったことも事実だ。桃助は自分で自分の伝説を作る男でもあったのだ。