明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「福沢桃助」電力業界の奇才(第3回)
大震災が大井ダムを直撃
大正時代は水力発電の勃興期。大正9年、桃助は木曽川電気興業、大阪送電、日本水力の三社を合併し、新たに大同電力を設立し、自ら合併会社の社長に就任した。新会社の事業は、木曽川電気興業時代から進めてきた大井ダムの建設だった。関西・中部地方の工業振興に、大いに期待された発電計画だった。電力の需要も大きな伸びを見せている。完成までに10年の歳月を要する難工事だったが、桃助はこの事業に燃えていた。明治から大正へ。第一次世界大戦を契機に日本の工業力は大きく伸び、工業の基礎たる水力発電事業に対する期待が集まっていたからだ。大正から昭和へと時代は大きく動いていた。福沢諭吉の女婿ということもあり世間も、桃助の事業には協力的だった。桃助が工事現場に出かける日が続いていた大正12年9月1日午前11時58分、首都を揺るがす大事件が起こる。いわゆる関東大震災だった。関東大震災は大井ダム建設を直撃することになったのである。そこに不況が押し寄せた。まず直面したのは、資金手当だ。市場は資金がタイトとなり、どこもかしこも金詰まりの状態におちいる。木曽川電気興業のダム建設は工事中でももっともカネを必要としているときだ。桃助は頭を抱えた。
慶應ボーイという呼び方がある。そこそこに遊び上手でスマートでハンサム。湘南で遊ぶ裕福な坊ちゃん——というイメージだ。慶應ボーイの原型を求めるとするなら、そのイメージに重なるのが福沢桃助だ。しかし、大震災直後の桃助は、苦渋の選択を迫られていた。震災の直接の被害が出たわけではないが、震災を境に金融が窮屈となり、建設資金の確保が難しくなったからだ。これまで注ぎ込んだ資金は約1000万円。さらに数千万円の事業資金が必要だ。金策に走る日々が続く。悪いことは重なる。大震災直後から景気が急速に後退し、その上に金融不安が経済界を襲った。通常なら数千万円程度のカネなら都合をつけられよう。何といっても、工業を支える基幹部門への投資なのだから......。しかし、金融事情は最悪だった。もはや誰も融資に応じるものなどいない。大井ダム検察は中止すべきかどうか、桃助はそこまで追いつめられていた。
日本がダメならアメリカの資金を使え!
事業家としては最大の試練のときである。論語の『衛霊公』に、公小人窮すればここに濫す——という言葉が出てくる。本来の意味は、君子と小人を比較しての言葉だ。転じて小人物は窮迫すると、とり乱して何でもしたい放題のことをしてしまうという意味に使われている。しかし、桃助は小人のごとく取り乱しもしなかったし、やけになったわけではなかった。さすがに福沢諭吉が見込んだだけの男だ。行動を起こすのである。それは周囲からみれば、奇想天外の行動に映った。日本での資金繰りは絶望的だ。ならばアメリカにはうなるほど資金が集まっている、そのカネを使えないかと考えたのだ。このあたりが並みの経営者と違うところだ。アメリカの友人と食事をしているとき、そんな話が出た。桃助は調べてみた。なるほど、アメリカには世界中から腐るほど資金が集まっていた。資金は行き場を失い、投資先を求めている。それならば——と、すぐに行動を起こすところが何やら今流ベンチャー起業家の行動に似ていなくもない。
桃助はアメリカに旅立つことを思い立つ。しかし、日本とアメリカは満州問題の処理をめぐり対立していた。現地では排日運動が起こっているとの話だ。日米関係は最悪で、そんなときに日本向けに融資をするなどとても考えらない、と誰もが疑義を唱えた。反対を押し切っての渡米は、大正13年5月のことだった。ニューヨークで旅装を解くのは5月31日のことだった、と記録に残っている。桃助はなかなかの演技者だ。翌日、出かけたのは教会だった。日本人は信仰心のあつい人種だ、とよい印象を与えるためだ。細事にも心配りをするのが、桃助の信条だ。しかし、外債発行交渉は、初日から不調だった。1カ月が過ぎても事態は好転しなかった。交渉が進展するのは、ジロンリード社の社長が直接交渉の場面に姿をみせてからだった。彼はじっくりと桃助の話を聞いた。こうして第一回目の銀行シンジケートローンの組成がなるのは8月に入ってからだった。外債の発効規模は1500万ドル。売り出されると、応募価格は倍額に跳ね上がり、即日完売という好成績をおさめた。外債発行の記念式典は、そりゃあ華麗なものだった。