明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「福沢桃助」電力業界の奇才(第2回)
目指すは公益事業
さて、桃助は明治元年6月、武蔵野国横見郡荒子村(埼玉県川越市)で、岩崎紀一の次男として出生。明治16年慶應義塾の教師を務めていた真野観我の推薦を受け、慶應義塾に入っている。前途のように福沢ふさと結婚し、福沢家に入籍するのは、明治20年のことだ。その年、桃助は欧米知識を得るためアメリカに留学している。夢は鉄道事業を興すことでアメリカ留学では、ペンシルバニア鉄道で見習いとして働いた。明治22年に帰国し、ふさと正式に結婚式を挙げている。帰国すると、人の薦めもあり、北海道炭鉱鉄道に入り、実業家としての第一歩を歩み始める。北海道炭鉱鉄道を退社し、王子製紙の取締役に就任するのは明治28年のことだが、在籍期間は短い。明治33年には同社を退社し株式投資を始める。これが日露戦争で株価が暴騰し、たちまち大金持ちになる。新橋の料亭で豪遊生活をしていて、政界の実力者・西園寺公望の知遇を得るのはこのころだ。
手持ちの資金で東京に地下鉄を建設する構想を思い立ち、会社設立を発起出願するのは明治33年12月。いよいよ実業家桃助の登場というわけだ。しかし、地下鉄会社は紆余曲折の末に挫折を余儀なくされる。それにしても、この時代に首都東京に地下鉄を作ろうというのは、卓抜の構想といえるだろう。しかし、彼の終生の事業となる電力会社を創業するのは、もっと先のことだ。すなわち、豊橋電気の取締役に就任するのが、最初の手がかりだった。アメリカに留学したのが、一つの契機になったのかもしれない。彼が目指すのは公益事業だった。最初に務めたのが鉄道会社であ り、事業家として起業を思い立つのも地下鉄会社だった。そして今度は電力会社である。せっかく事業を興すなら、国家人民のためになる事業を、と桃助は考えたのが公益事業というわけだ。豊橋電気では多くのことを学んだ。ついで桃助は古屋電灯顧問に就任するのは明治43年のことだ。
電力事業への参入
ちなみに、桃助が構想した首都東京地下鉄計画は、東京市内外交通調査委員会が大正8年に発表した調査書によって始まった。この計画はその後関東大震災があったため修正されて、大正14年、東京特別都市計画の一部として決定、告示された。同年、東京地下鉄道会社によって着工された上野—浅草間の2.2キロメートルが昭和2年に開通し、ついで昭和11年東京高速鉄道会社によって完成された渋谷—新橋間との直通運転が、昭和14年に開始された。この両社の路線は昭和16年に設立された帝都高速度交通営団に引き継がれ、現在の営団銀座線となっている。桃助が地下鉄計画を構想するのは、明治33年のことだから、計画が実現するまで20余年の歳月を要したことになる。しかし、このころの桃助には、鉄道のことなど忘れ、電源開発に情熱を燃やしていた。
桃助が電力事業に着目するのは、大正に入ってからのことだ。すでに先人たちが電力事業を興したのは明治20年のことである。これは西洋の電気事業の創業に比べて僅か数年遅れのこと。明治の日本人がいかに起業の精神に富んでいたかがわかる。当時、最初の電気供給は、当代随一の社交場として名高かった鹿鳴館の白熱電灯への供給だった。電気事業は、まさに文明開化のシンボルとしてスタートしたのである。東京電灯の創業を皮切りに、明治20年代から30年代にかけて全国各地に相次いで電灯会社が設立された。主要な都市部には神戸電燈、大阪電燈、京都電燈、横浜共同電燈、名古屋電燈、更にそれが地方の中小都市へと波及して、熊本電燈、札幌電燈、岡山電燈、仙台電燈、徳島電燈、高松電燈、富山電燈等が開業。明治29年には事業者数33、供給電灯は22万灯にも及んだと東京電力の元役員が書いている。