明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「中部幾次郎」大洋漁業の創業者(第2回)

試行錯誤の連続が成功を生む

幾次郎は凡庸な男だが、研究熱心だった。研究熱心なのは、何も天気予報をして魚価を予測することだけではなかった。魚は鮮度がよければ、高値がつく。いかに鮮度を保つかが勝負だ。方法はきわめて単純だ。漁場から港までの輸送時間を短縮することだ。瀬戸内海など近くの漁場なら問題はないが、船足が伸びて、土佐沖や五島列島まで出かけるとなると、いまのように冷凍設備などないから、鮮度を保ちながら輸送するのに一苦労させられる。しかも当時は押し送り船による運送だ。せっかくの大魚も港についたとき、臭気を上げているようじゃ値段がつかない。そこで幾次郎が目をつけたのが瀬戸内海を走る蒸気船だった。高速で走るから輸送時間が短縮できる。しかし、これは高価だ。名もない林兼には大金を用意することができなかった。それならば和船に古汽缶を取り付けることができないものか、と考えた。強力なエンジンをつけるのだから、確実に船足は速くなるはずだ。アイデアはよかったが、しかし、船体を作る船大工が現れなかった。

経営というのは、試行錯誤を繰り返すものだ。ようやく見つかった船大工も、首を傾げるばかりだ。船大工を督励し苦心惨憺の末に、どうにか形はできた。しかし、素人のこととて実用に耐えられるものではなかった。仲間の魚屋たちは「バカなことよ」と、幾次郎を物笑いにしたものだった。試行錯誤は続けられ、窮余の策として考案されたのが、蒸気船で和船を引っぱる方法だ。蒸気船を買い入れるほどのカネはないが、蒸気船をチャーターできれば話は別だ。 動けば方策は見つかるものだ。行動と決断——というのが、幾次郎の身上だ。しかし、船主は渋い顔をした。魚じゃ臭いがつくと難色したのだ。いや、曳船として使うだけだから、臭いはつかないと応じる。渋る船主を説得し、どうにか交渉はまとまった。こうして日本で初めての魚の蒸気船曳航による輸送が始まるのだった。

時間はカネだ!

チャーターしたのは「淡路島丸」という蒸気船だ。幾次郎は素早く計算していた。明石や淡路島から早朝に出航しても、大阪の市場に悠々間に合う。汽船で曳航すれば、もう大阪など数時間の距離だ——と。幾次郎の目論見は見事当たった。明石の魚は活魚——との評判を呼び、4、5割の高値で飛ぶように売れた。押し送り船が嵐で出航できないときでも、林兼の船だけは動き、高値がつき、その利益は莫大なものだった。まさに時間とはカネだ。アイデアにかけた勝負は見事成功を収めた。ときに幾次郎31歳のときである。

明石といえば鮮魚——という評判を取ったのは、文字通り蒸気船による曳船運航のおかげだった。しかし、凡庸な男は工夫と研究を忘れない。評判を取り、成功をおさめれば必ず後に続く者が出てくるからだ。成功に酔いしれていると、続く者に追い抜かれる。おりから大阪では第五回勧業博覧会が開かれていた。幾次郎は船大工松五郎を帯同し、博覧会に出かけた。もちろん、物見遊山のためではない。目的は日本に初めて輸入された冷凍庫なるものが展示されているという話を聞いていたからだ。魚の保存に絶えず苦労させられていた幾次郎には、冷凍庫に興味をそそられたのだった。なるほど——と、実物を見て幾次郎は大いに感心するのだった。しかし、船大工を帯同したにはわけがあった。大阪の川筋で運行されている「巡航船」なるものを、しかとこの目で確かめるのが目的だった。(つづく)