明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「中部幾次郎」大洋漁業の創業者(第1回)

明石市は東北部を神戸市に接していて、南は明石海峡を隔てて淡路島を望む。地誌によれば、この地名は「赤磯(あかし)」に由来すると書かれている。すなわち、この一帯の土が赤みががっていることから命名された地名という。江戸期は小笠原氏が移封してきて明石城を築き、天和2年(1882年)以降松平氏の治下になり、廃藩置県で明石県を経て後兵庫県に統合され現在に至る。国の重要文化財指定を受ける明石城の巽櫓も有名だが、明石といえば、やはり魚だ。ここでの主人公中部幾次郎が明石の魚の運搬仲買業「林兼」の倅と生まれたのは慶応2年のことだ。日本の水産業を世界の水準に押し上げた実業家と称賛される幾次郎ではあるが、少青年時代の彼は、むしろ凡庸な魚屋の倅だった。商人には学問は無用なこと——のことわり通り、寺子屋に通うわけでも小学校に通わされたわけでもなく、早朝から稼業に精を出す毎日だった。稼業を手伝うことで、商売の智慧とコツを学び取るよう躾るのが、当時の一般的な子弟教育だったのである。

継続は科学なり

幾次郎が世間に名を知られるようになるのは19歳のときだ。もうこの歳になるとこのあたりの魚屋は一人前の仲買人として海に出るようになる。魚屋のもっとも肝要なことは魚価の予想だ。そのときどきの魚相場の予想が、商売の浮沈に関わるからだ。魚価は天候判断や潮の流れで不漁・大漁が左右される。とりわけ重要なのは天候の判断だ。天気予報が穀物相場を大きく左右するのはいまも昔も変わらない。いまでは、気象予報自体が商売になっているほどだ。その意味で幾次郎は天気予報をビジネスに結びつけた最初の人物といえる。幾次郎は人に教わったものではない。実家の稼業を手伝ううちに身につけた才能だ。天性の賭才といっていいかも知れぬ。幾次郎は天気予報を的中させ、魚価を予想してみせ、人びとを驚かせたのだった。

しかし、当時は科学的な予想方法があったわけではなかった。ちなみに、近代的な天気予報が始まるのは、明治16年のことだ。海洋気象のような複雑な予測ができるようになるのは、さらになお先のことだ。往事は手漕ぎの小さな船か帆船を仕立てての漁業だ。海が荒れ、途中で引き返すのもたびたびだ。果たしてどのあたりまで漁船はいけるのか、幾次郎は空を眺めながら翌日の予想を立てる。明石の浜辺に立ち、雲の流れや風向きなど詳細の観察し予想を立てるのだ。幾次郎は研究熱心な男だった。予想が的中するのは、研究熱心であったからだ。カンや体験に頼るだけでは不安だ。すなわち、科学的データを蓄積して、予報をより確実なものにするのだった。

もとより自然が相手の仕事のことだ。自然は気ままだ。幾次郎がやったことはむしろ凡庸なことだ。雲の動きや風向き、海の色などを観察することだ。しかし、この凡庸な仕事を毎日欠かさず続けるところに非凡さがある。明石の浜辺に立ち、空模様を見て、雨が降れば雨量を測定し、風向きや雲の流れを観察する日々は、天気予報が科学的手法で公表をされるようになってからも続けられた。彼にとっては、継続して観察を続けることが科学なのであり、それが力にもなったのである。幾次郎が「林兼」の旗を押し立て船を出すと同業者たちは「今日は晴れるぞ、それいけ!」と、後に続いたものだった。こうして幾次郎は天気予報を武器にして、魚価を的中させ、明石の名もない「林兼」を、世界的な漁業会社に発展させる基盤を作り上げていくのだった。(つづく)