明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「小林一三(いちぞう)」希代の遊び人事業家(第2回)

男一生の仕事というのならカネを出そう

小林はさっそく経理状態を調べてみた。わかったのは解散に追い込まれるほど燦々たる状態にあったことだ。おりから日露戦争の反動不況。資本金の払い込みも、予定の半分ほどもなかった。ある日、小林は箕面有馬鉄道軌道の沿線を歩いてみた。のどかな田園が続く。これは成功すると確信する。ひとつは勤め人が増えて、住宅地が郊外へと広がりつつあったこと。このあたりは住宅地を開発するには最適地である——と。当時の大阪は経済の中心だ。大阪からみれば、東京など片田舎だ。つまり明治末期の大阪は爆発的な経済発展をみせていた。人口も爆発的な伸びを示していた。小林は沿線土地の買収にかかる。電鉄が開通したあと、宅地として開発し、売却するという構想だ。いまでこそあたりまえのことだが、往事の経済人にしてみれば、まさしくベンチャーだった。

こうした挫折しかけていた箕面有馬鉄道軌道の再建計画をまとめ、三井銀行の先輩岩下清周を北浜銀行に訪ねる。採算は絶対に取れる、この仕事を任せて欲しい、そのためにはカネが必要だ、ついては未払込の資本金5万4000株を引き受けてはくれまいか、この事業は男小林一生の仕事だ、と低頭しながら懇請するのだった。その小林に岩下は「それが君の一生の仕事だというのなら、カネを出そう」という。岩下が言ったのは「リスクを引き受ける覚悟」のことだった。その言葉にはたと気づかされるものがあり、小林は自分も株主としてのリスクを引き受けることを決め、親戚縁者からカネをかき集め、1万株余を引き受け、その上で北浜銀行に岩下を再び訪ね、4万株の株引き受けを懇請するのだった。創業総会が開かれるのは明治40年10月と記録されている。このとき小林は専務取締役に就任する。計画はこうして動き出すのだが、準備は用意周到に進められる。カネの問題が解決すれば、次は技術者の確保だ。

沿線は壮大なテーマパーク

鈴木三郎助と同様に小林がもっとも心血を注いだのは広告宣伝だった。事業を広告宣伝で成功させるという発想は、当時の事業家になかった。経済学の用語でいえば供給サイドの立場しかなかったのである。「未来にかけろ!」と、小林は工事中から広告宣伝を始めた。箕面有馬鉄道軌道が用意したパンフレットには『最も有望なる電車』とある。これを1万冊刷り、大阪市内に配布したのである。鉄道工事は急ピッチで進められている。まだ鉄道未開通の段階から大がかりな宣伝を始めたのである。パンフレットは問答形式で、建設費用の調達の方法や工事の内容、収支計算、住宅地の開発、その将来の見通しなど鉄道事業に付属する事業なども紹介してある。いまでいえば情報開示であり、情報開示により大阪在住のサラリーマンの心をつかむことにしたのだ。

翌年、第二弾の広告宣伝が展開される。重点をおいたのは住宅開発だ。自宅から勤務先まで30分ほどの距離だ。勤め人には至便である。その点を強調した。大阪在住の勤め人の間で大きな反響を呼んだものだった。小林のアイデアは尽きることがない。鉄道が通れば、人は動く。いや、動かぬのならば、動かさねばならない。勤務先と自宅を往復するだけの運賃収入ではたかが知れていると考えたのだった。沿線に箕面公園を作り、公園内に動物園を作った。宝塚に温泉センターを作り、そこで少女たちに歌や踊りをやらせるアイデアも実現される。のちの宝塚歌劇団の発足だ。豊中には総合グランドを構想した。往事の人びとをびっくりさせたのは箕面動物園だ。自然の大地を利用し、岩石や樹木を巧みに配置した、とても斬新な動物園だった。サファリパークだ。

箕面有馬鉄道軌道を鳥瞰的にみれば、そこに出現するのは壮大なテーマパークがみえてくるという仕掛けだ。要するに鉄道事業だけじゃ儲からない。それならば関連付帯事業を合わせ営業すれば、何とか持ちこたえられる——と、事業家小林は構想したのであった。(つづく)