明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「五島慶太」強盗と呼ばれた経済人(第7回)

大東急コンツェルン解体

終戦は戦後民主主義の始まりでもあった。たぶんにもれず、東急本社にも赤旗が乱立し労働組合運動の嵐が吹き荒れた。五島は悪名高い東条内閣の閣僚でもある。戦争責任を追及する声もあがった。民主化はGHQの要求でもある。自伝によれば、五島慶太はそれらの前に「傲然と立ちはだかった」と書いている。確かに一時、労働組合の攻勢にさらされた。しかし、それは時代の波であり、新しい支配者GHQの方針でもあった。退陣要求は労働組合だけではない。重役たちの間からも、経営責任を追及する声が上がっていた。GHQはどんな方針でいるのか、五島慶太は新しい支配者の意図をつかめずにいた。その年の暮れ、GHQは東条英機らA級戦犯の逮捕に踏み切る。

五島は自分を時勢を読める男だと思っている。このときは別だった。政治家や軍人が次々と巣鴨プリズンに収監されている。経済人も例外ではないという。各種の怪情報が乱れ飛ぶなか強気の男五島慶太は首をすくめて自宅で逼塞していた。噂は事実であった。それでも五島慶太は「ワシでなければ、東急の大所帯の切り盛りできぬ」と、強気にがんばったものだ。昭和22年8月、五島は一通の書簡を受け取る。東条内閣の閣僚を務めたことを理由とする「公職追放」だった。ついで大東急コンツェルンは、翌年「集中排除法」の適用を受け、小田急、京王帝都、京浜急行は東急から分離される。

最後の大ばくち-白木屋買収

五島慶太は公職追放の身である。自ら「強盗慶太」と呼ばれながらも、心血を注ぎ築き上げた大東急コンツェルンの解体を、どのようにみていたか。公職追放解除を受けるのは昭和26年8月だ。この年69歳。再び東急に復帰した五島慶太は、事業再建に向けて動き出すのであった。まず系列各社の実体を調べる。まずは順調である。しかし、東映はだめだった。五島は腹心の部下東急専務の大川博を、東映に派遣し、再建に当たらせる。その3年後に、東映は立ち直る。それがよほど嬉しかったとみえ、五島慶太は自伝で「最も痛快な事業は東映の再建であった」と語っている。

70を過ぎても、この男から生臭を抜くのは困難である。またも五島慶太は新聞紙面をにぎわす行動にでたのだ。名門白木屋の買収だ。五島は人を使って白木屋の経営実態を調べさせた。報告には「赤字経営」とあった。密かに株を買い占める作戦にでたのは、常套手段だ。しかし、右翼や総会屋、政治家などが絡み、買収工作は難航をきわめる。この間の事情については、いくつも小説が書かれているほどだ。要するに、大事件だったのである。三越買収で苦杯をなめたあと、五島には白木屋買収は都心部に百貨店を持つ悲願でもあった。白木屋を買収し、昭和38年に東横と白木屋は合併し、日本橋に新装の東急デパートが誕生する。しかし、その東急デパートは日本橋の一等地に店を構えながら、経営不振で平成10年に店じまいをする。

米ビジネススクールに似た手法

70を過ぎても、五島慶太の事業欲は衰えることを知らず、昭和32年 には東亜石油や定山渓鉄道を東急の傘下に入れ、さらに北海道では観光事業を大々的に展開した。ホテル事業にも進出し、東京ヒルトンホテル、伊豆-伊東間の鉄道敷設の利権を手に入れると伊豆観光開発に精力をつぎ込んだ。とりわけ伊豆開発では、五島慶太は最後の気力を振り絞り、利権獲得に大車輪で動いた。西武鉄道の堤康次朗と覇を競い、マスコミが派手に報道したものだった。伊豆開発の途中で、五島慶太は病に倒れる。昭和33年、病は回復することなく逝く。下田港を見下ろす高台に継嗣昇の筆による碑文が立っている。

その継嗣昇もいまは亡い。鬼となり、強盗と呼ばれ、買収に動いた日本橋白木屋のあったところは、いまや空き地である。そして東急は業績不振に 悩み、王国解体の危機に瀕しているという。強盗と呼ばれるほど、アコギな経営手法で、すなわち株の買い占めと合併という方法を繰り返しながら、希代の事業家五島慶太が築き上げた東急王国。五島の経営手法を今様にいえば、アメリカのビジネスクール出身者の手法にも似ている。ハゲタカのように弱体化した相手に食らいつき、食い散らすビジネスモデルだ。その経営実態はいかにも脆かった。経営者とは、後世の人びとに何を残すか、閉店を余儀なくされた白木屋の跡地をみながら、考えさせられたものだった。(完)