明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「山本条太郎」情報をカネに替えた草分けの商社マン(第2回)

乗船勤務で覚えた本物の英語

三井物産に大損をさせたわけではなかったが、掟破りは厳罰だ。相場をやっていたのを見つけたのは、偶然にも横浜支店長を務めていた馬越恭平だ。今度は本気で怒り、乗船勤務を命じた。明治19年12月のことで、条太郎19歳のときだ。三井物産の社員が乗船勤務を命じられるのは、もちろん不名誉なことだ。勤務地は日本-上海-香港を結ぶ三角航路だった。普通ならふてくされて辞表を出すところだ。しかし、この男の面白いところは、どんな境遇にあっても、とことん仕事を楽しむ風があった。

ろくに学校も出ていなかった条太郎が英語をものにするのは、この乗船時代だ。英国人船長夫婦にかわいがられて、英国風マナーから英語を教わったというのだから、上流階級が話す本格派の英語だ。条太郎は根っからの商売人である。凡人なら無為に海を眺めてくらすところだが、彼はそうではない。中国の炭鉱を見て回ったり、木材輸入の可能性を探るため、中国東北部の奥地を旅してみたりして、大豆や小麦の研究もした。勉強に勉強を重ねたのが、この時期だ。のちに満鉄総裁に転出する条太郎だが、このとき中国の勉強をしたことが大いに役立ったと述懐している。

物産本社は乗船勤務の男を放ってはおかなかった。正式に上海勤務になるのは、明治21年だった。日清戦争から日露戦争をはさみ、日本企業が中国大陸に怒濤のように流れ込む時代でもあり、また日本資本主義勃興の時期とも重なり、三井物産も大陸に巨大な権益を築き上げていく。その先陣を走ったのが山本条太郎だ。国産石炭の販路を海外に広げたり、綿紡績産業が勃興するや、原綿の輸入販売を手がけたり、紡績機械の一手販売権を獲得したりの、八面六臂の活躍ぶりだ。

満州大豆を手がけ物産のドル箱に

これは条太郎の自慢話の一つだが、日本人商社マンとして満州に一番乗りしたのも、この男だという。そこで目をつけたのが満州大豆だ。もちろん未開の満州だから、大豆の生産はわずかだった。気候を調べたり、品種改良の可能性を検討してみたり、条太郎は大豆の研究をしてみた。販路も研究した。こうしてまずイギリス市場に売り込みをかけ、ヨーロッパ大陸に満州大豆の独占販売権を得るのだった。ちなみに、山本条太郎が満鉄総裁として満州に赴任するころになると、満州大豆の生産高は500万トンの大台に達し、対欧米向け輸出だけで200万トンの大台に迫ろうとしていた。満州大豆は三井物産には文字通りのドル箱に成長を遂げたのである。感嘆すべきは、この男の着眼点である。

日本海戦に情報協力で一役と決断

商取引で肝心要は、決済方法である。しかし、満州進出の足がかりとして拠点をおいた営口には銀行はなく、決済というのは「過爐銀」という方法だった。簡単にいえば、通貨に頼らずに、互いに帳簿に取引額だけを記載しておき、暮れと盆の二回、取り引き尻だけを合わせ正貨で清算・決済する方式だ。銀行があれば、こんな面倒な取り引きをしなくても済む。しかし、銀行は遠く離れた上海だ。

そこで条太郎は、日本から石炭を持っていき、その見返りに大豆を持ち帰るという物々交換方式での取り引きを行った。無理をせず、地元のやり方に自らを合わせるというやり方だ。上海勤務の時代、条太郎は幾度も満州を訪問している。目的は軍に協力するためだった。日露戦争の遠因が、南満州の争奪にあったことはよく知られる通りで、条太郎の卓抜な満州経済事情に関する知識が、軍事戦略を組み上げていく上で、大いに役だったと陸軍の記録にも出ている。日露戦争が始まると、海軍にとっての焦眉の急は、バルチック艦隊の動静を探ることだった。いったい、どの航路をとるのか、待ち伏せ戦略をとる日本海軍には、最大の関心事だ。条太郎はひとつの重大な決断をしている。