明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「岩崎弥太郎」維新の政商ベンチャー(第1回)

士魂商才という言葉がある。維新後、各藩や幕府の碌を離れたサムライたちに明治政府が支給した一時金を元手に商売をはじめた、いわゆる武士の商法のことで、商いに失敗したサムライを揶揄する言葉として使われる。いまで言えば、大蔵省や通産省など役所を辞めた高級官吏がベンチャービジネスに乗り出し、敢えなく事業に失敗するケースなどが類似の行為として想起される。明治の侍たちは気位ばかり高く、たいていは失敗に終わる。けれども数少ないサムライたちが維新の荒波を乗り越え、事業家として立身に成功した士魂の人たちもあった。ここに登場する土佐の地下浪人岩崎弥太郎も、その一人である。

貧乏人の逆説

弥太郎は日本資本主義の父と呼ばれた渋澤栄一よりも六歳年上で、生まれは土佐の安芸郡井ノ口村だ。生家は貧乏な地下浪人。地下浪人とは失業した郷士のことだが、極貧の中にあっても、子弟の教育には実に熱心でかつカネを費やすという逆説は、弥太郎の家も同じことであった。12歳のとき、野中兼山の流れを組む儒学者、小牧米山につき、経書を学んだ。21歳のとき江戸に出て、昌平黌の儒官穂積民斎の門下に入った。学問の出来はなかなかだったという。しかし、この男は気性が荒く生来の乱暴者。酒の上で乱暴狼籍をはたらき、入牢を命じられたこともある。才能や才覚があっても、身分制が確固な封建社会にあっては、地下浪人の身分では立身の道など望むべきもない。若い弥太郎が、エネルギーを持て余し、鬱々とした日々を送っていたことは想像に余りある。

彼の運命を大きく変えたのは、後藤象二郎との邂逅だった。江戸から帰郷してまもなくのころ、土佐藩改革派の首領だった吉田東洋が城下の長浜村に謹慎中で、その東洋は塾を開き、近郷子弟の教育にあたっていた。後藤象二郎は東洋の甥にあたる。あるとき、象二郎に宿題を与えた。返ってきた答案がなかなかの出来だ。東洋は首を傾げた。象二郎にしては出来すぎと思えたからだ。よくよく聞いてみると、岩崎弥太郎が代筆した、と正直に告白する。これを期に、弥太郎は東洋の面識を得て、東洋が謹慎を解かれ、家老職に復帰すると、彼の計らいで長崎に留学生として派遣される。

貿易立国の夢を育てるのは、長崎留学でのことである。渋澤栄一はフランス遊学で「合本主義」を学んだ。弥太郎は形而上的な経済理論は学ばなかったが、政治と経済、カネと権力の関係を学び、よりリアルな事業家としての眼力を養っている。とき、あたかも風雲急をつげ、政治は大きく揺れ、経済力が権力を動かす、その実態を見たのである。しかし、事業家としての道のりは決して順風満帆だったわけではない。開国派の吉田東洋が暗殺されて、土佐藩の政治の風向きががらりと変わったからだ。弥太郎を引き立てくれる人は今はいない。土佐藩の政治情勢はますます流動化している、東洋の恩義に報いるため、仇討ちも考えた。武士の意地が立たないと思い詰めたのである。迷いに迷い、考えに考え抜いた末に、弥太郎が商人として生きる道を選ぶのは、このときである。

巨悪は善に通ず

けれども、弥太郎はこのとき、意地を立てるには功利に過ぎ、侍をやめ、商人になるも商人たるもまた難きかな——と呻吟している。わずかな手元資金で材木商をはじめたのだが、これが見事に失敗したのだった。弥太郎には春は遠かった。しかし、事態は思わぬことで好転する。盟友の、公武合体を推進する後藤象二郎が政権を掌握するのだ。後藤は弥太郎の才覚を見込んで、開成館を創設する。高知産の土産品を扱う商社だ。土佐の土産品を京都・大阪・長崎に販売し、そこから得た利益で軍艦や兵器を購入し、富国強兵を図ろうという考えである。坂本龍馬の海援隊に影響を受けた構想だ。しかし、開成館の経営はうまくいかなかった。後藤は放蕩の限りをつくし、あげくの乱脈経営だ。しかも公権力による独占的商売だから、土産品が軒並み高騰を続け、経営は悪化する。責任を追求された後藤はついに逃げ出す。その後始末を引き受けたのが弥太郎というわけだ。

再建は見事に成功した。そんなに難しいことをやったわけではない。入りを増やし出を押さえる——だけだ。その後、商才を見込まれ、弥太郎は長崎商会の経営をあずかり、さらに坂本龍馬が設立した海援隊とも関係を深める。しかし、弥太郎はなかなか狡知な男である。長崎商会の閉鎖が決まったとき、後藤が長崎に回送した樟脳代金16万両と、海援隊から供託された7万両を着服したとされる。これが後の三菱創設の基金になったというのは定説である。23万両もの大金が行方知れずになったのだからスキャンダルだ。いまでいう背任横領だ。しかし、弥太郎は維新のどさくさのなか、証拠の書類を焼却してしまったものだから、追求されずに終わっている。もちろん後藤象二郎は、事情を呑み込んでいた。二人の不思議な盟約関係......。つまり弥太郎が終生後藤象二郎に頭が上がらなかったのはこうした事情があるためだった。

まあ、しかし、乱世である。弥太郎を責めるのは気の毒である。彼もまた、国家の将来を憂いて、無理難題ばかりをいう土佐藩の重役や、浪士どもに資金を用立て、維新のために働いた男であるからだ。巨悪は善に通じる、そんな考え方だ。弥太郎が大金を懐に、土佐藩の大阪商会に出仕するのは、明治2年のことだ。カネをつかみ、権力を握ると、幸運は相手の方から転がり込んでくる。彼は商会代表として土佐藩の海運事業を一手に握る。明治3年10月には、土佐藩の権小参事に就任し、土佐開成商社を設立する。藩所有の船舶を貸与され、半官半民の回漕業業に乗り出し、この会社は後に九十九商会と改称し、藩所有の財産と船舶のすべてが、彼に任される。ご承知のように九十九商会は明治5年に三菱商会と改称し、こうして弥太郎は、その後の三菱財閥の基盤を築き上げるのだった。(つづく)