明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「渋澤栄一」日本資本主義の父(第2回)

イデオロギーにはこだわらぬ

しかし、人間の運命というのはわからないものだ。京都には似たもの同士が、うようよしている。殺人を繰り返すことを、尊皇攘夷と勘違して、ダンビラを振り回すだけの無知な連中。御用金と称し、強盗を働くような悪党だ。他人と違う——は、青年の自意識というものだ。自意識過剰な渋澤には、耐えられなかったのだろう。激越な尊皇攘夷の志士が今度は一転、一橋慶喜の家臣になってしまうのだ。変わり身の早さは渋澤栄一の信条でもある。ひょんなことで 「オレはサムライになる」が、現実になるのだ。もっとも4石2人ぶちの小兵の身分。故郷の代官を見下すほどの身分ではないが、それでも一橋家の直参である。これが渋澤の生涯の転機となる。ときに渋澤24歳の春だった

時代は目まぐるしく動いていた。一つのイデオロギーにとりつかれていたら、時代に乗り遅れる。そういう自覚が渋澤にはあった。将軍家茂が急逝し、主君慶喜が15代将軍になる。主君の栄達は家臣たちの栄達でもある。渋澤は引き立てられ、陸軍奉行支配調役に栄進した。晴れてのサムライの仲間入りだ。渋澤はよくよく幸運に恵まれた男で、将軍慶喜の実弟徳川昭武がフランスで開催された万国博覧会に代表使節として渡欧するとき、渋澤は随員に選ばれ、初めての外国旅行を体験することになった。慶喜に恩義を感じたであろう。渋澤は終生、慶喜に忠を尽くした。尊皇攘夷を唱え、妻を故郷に残し、過激な行動に走った青年は、このとき27歳になっていた

はれて侍身分で訪欧

渋澤が渡欧随員に選ばれた、その理由については諸説ある。渋澤の理財の才覚を見込んで一橋慶喜が選んだというのがもっとも有力な説だ。渡欧代表は慶喜の実弟民部公子(後の水戸藩主徳川昭武)だった。その実弟が異境で金子に不自由するようでは困る、そこで理財に明るい渋澤を選んだという説だ。渋澤は半農半商の出自であるだけに、ソロバンもよくできて理財に明るい男だった。気分は侍だが、身についたのは、やはりソロバン勘定であり、それを慶喜はよくみていたというわけだ。

日本からヨーロッパに向かうには3ヶ月の長い船旅になる。横浜を出航し、香港、シンガポール、インド、エジプトを経てマルセイユに到着したのは慶応3年(1867年)4月のことだった。一行27名は、パリを本拠に据え、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなどヨーロッパ各国を精力的に回っている。幕府から情報収集を命じられていたからだ。19世紀のヨーロッパは「西から太陽が昇る」ほどの勢いで、石造りの街並み、蒸気を吐きながら鉄道が走り、高炉に噴煙が上がる。300年近く国を閉ざした封建の国から やってきたサムライたちには、見るもの聞くもの、驚きの連続だった。

渋澤栄一も、その一人に違いなかった。だが、渋澤はただ驚いていただけではない。随伴したのは、いずも旗本のお歴々だ。高級官僚というべき幕臣たちは、建造物やモノに驚嘆の声を上げた。しかし、百姓出の渋澤は、他の随員とは少しばかり違っていた。じっくりと観察したのは、表層的なものではなく彼が着目したのはヨーロッパ諸国の発展を促した「システム」そのものだった。つまりものを動かす仕組みやモノの考え方であった。とりわけ渋澤は「株式会社」の存在に着目した。感嘆したのは、零細な大衆資金を動員し「株式資本」を作り、それによって巨大事業を起こすやり方だ。これは日本人にはない事業の考え方だ。なるほど、と渋澤は膝を打った。渋澤が合点したのは、すなわち渋澤の言葉でいうところの「合本主義」というシステムで、そのシステムに渋澤はとりつかれた。(つづく)