中小企業NEWS特集記事

「梶屋→IPPO」閉店惜しまれた中華料理店

梶屋を譲渡した石原耕一氏(左)と新経営者の川﨑宣孝氏

企業経営者の平均年齢が上昇する中、後継者不在による中小企業や小規模事業者の事業引継ぎ問題がとりわけ深刻化している窮状を打開しようと、2011年に立ち上げた事業引継ぎ支援センターは今年3月、すべての都道府県に整備された。この5年間で1万件を超える相談に応じ、事業引継ぎの成約は360件余りに達している。成功事例の現場から、事業引継ぎの「今」をリポートする。

多くの根強いファンが付いていた岡山市西大寺地区の中華料理店、梶屋休業のニュースが流れたのは、2015年3月のこと。経営者だった石原耕一氏(68)の妻の「不幸」で、脱サラ以来、25年間かけてきた暖簾を降ろした。

二人三脚で切り盛りしてきた店は、昼には行列ができる繁盛店だったが、妻の闘病中は夜の営業ができずに売り上げが激減。備前信用金庫平島支店からの借入金の返済は滞った。解決策を頼った弁護士には、自己破産を即座に勧められた。四十九日法要を済ませた直後だった。

しかし、消沈して所有する土地をすべて手放す覚悟で平島支店に出向いたことから事態は好転する。支店担当者は「この財務状況なら、どこかが事業を譲り受けるのでは」と本店に相談。本店が石原氏に紹介したのが、岡山県事業引継ぎ支援センター(岡山市北区)だった。

センターは、簡易デューデリジェンス(資産査定)をセンターの費用負担で実施した。会社所有の店舗と、店舗のある個人所有の土地を売却すれば、借入金の返済が可能と判断。通常業務として募集し、登録していた事業引継ぎを希望する企業から譲渡候補者を探し始めた。

梶屋休業のニュースは、岡山駅前を中心に自社ブランド「えびすらーめん」などを複数経営するIPPO(岡山市北区)の川﨑宣孝代表取締役(41)の目にも留まった。梶屋公認ファンサイトで一報が流れたからだ。

サイトの管理人は、奇しくも川﨑氏の中学校の同級生だった。川﨑氏は、梶屋の経営再建に関心のあることを旧友に伝えた。

杉原和夫プロジェクトマネージャーは、センターを訪れた当時の石原氏を「夫人の闘病で陥った経営不振からの閉店に、追い打ちをかける破産勧告から立ち直れていなかった」と回想する。石原氏も「悔しくて涙が自然と溢れた」と自らを振り返る。

が、センターと信金がそれぞれに選考した事業者に川﨑氏が加わり、事業譲渡を希望する候補が5者に達した心強さなどから、次第に活力を取り戻した。

「2人の娘は嫁いでいる。経営を任せられる従業員はいなかった。跡継ぎが見つからなければ、70歳で廃業しようと決めていた矢先の事業譲渡案だった」

候補者全員と面談を重ねた石原氏は、川﨑氏を事実上の後継者に指名する形で梶屋を売却した。「川﨑氏に、梶屋や店舗経営、顧客への優しさを感じた。すべて託せると確信した」と事業譲渡の決め手を明かす。

川﨑氏も、「いくらなら譲ってくれるのか」と石原氏の言い値で買い取る意思を伝えるほどに、梶屋経営には熱意を持った。理由をこう語る。

「自社ブランドのラーメン店には、インパクトのあるメニューがなかった。古くからのファンが支える他店舗の引継ぎは冒険だが、チャンスでもあった」

梶屋には、看板メニュー「えびどん」がある。エビフライが大好きな石原氏が、名古屋で食べた「エビフリャー」(同氏)をヒントに作ったタルタルソースいっぱいの逸品だ。

石原氏はセンターに相談に訪れてから3カ月後の15年8月25日、事業を正式譲渡。川﨑氏は、石原氏が独学で仕上げてきたメニューをレシピ化する作業から着手し、新店長に就いた達山隆大氏のメニュー習得努力もあって、同年9月18日の営業にこぎ着けた。今では岡山駅前に2号店も出店している。

川﨑氏は、この2号店で県内展開をしばらく休止し、従業員の満足度を引き上げながら県外進出の機会を探る。石原氏は、梶屋を継ぐ新たなスタッフに「自分ならではの一品の開発」を期待しつつ、アドバイスを続けていく。