喜一郎、否、“トヨタ”には、先発する紡機における成功体験があった。
明治27年6月11日、佐吉の長男に生まれた喜一郎は、父親が発明と経営の板挟みにあって苦労している姿を見ながら成長した。
旧制第二高等学校(仙台)に学び、東京帝国大学工学部機械工学科を出た彼は、父の「豊田紡織」に卒業とともに入社している。
この息子に、佐吉は
「発明などというものはなかなか出来るものではない。そんなものに没頭するより、紡績事業(経営)をしっかりやれ」
と諭した。佐吉の言葉は本音であったに違いない。喜一郎は生後2ヵ月ほどで生母と生別しているが、原因は佐吉の発明への執念、それによる生活苦であったかと考えられる。
しかし、喜一郎は発明家の父の影響を色濃く受け継ぎ、同じ道を志した。否、のちのトヨタ自動車そのものが、佐吉の教えを今に抱きつづけているというべきか。
昭和10年(1935)10月に、“トヨタ”では「豊田綱領」という5ヵ条が成文化された。
その中に、次の一項があった。