トヨタ自動車創業者
豊田喜一郎(トヨタ自動車) 第1回 時流にさきんずべし
著者・歴史作家=加来耕三
イラスト=大田依良
いまからざっと70年前、日本が“昭和”に入ったころ、自動車をつくるという行為は、それ自体が至難の技であった。それこそ今日でいえば、ロケットを宇宙へ飛ばすのと同様の難しさがともなっていた。
なぜならば、自動車をつくることは、とりもなおさず最新の技術を必要とし、時代の最先端を行く総合工業力あってこそ、自動車は組み立てられたからにほかならない。換言すれば、基礎となるべき広域な工業力なくして、自動車はつくれなかったといえる。
ふり返れば明治43年(1910)、一代の「織機の発明王」として知られ、幾多の発明・特許をものにした豊田佐吉が、欧米視察に出かけている。
この時、アメリカにはすでに自動車メーカーが八十数社あり、都市には縦横に車が走っていた。
「これからは自動車の時代だ」
佐吉は確信をもって帰国したものの、日本では相変わらず、鉄道以外の交通手段は馬車であり、牛車、人力車、自転車であって、自動車(電気、蒸気も含む)は高価な奢侈品と国民からはみられていた。
そうした中で、国産初のガソリン自動車「タクリー号」(2気筒、12馬力)が製造されたが、他社も含め、明治時代を通じての国産は43台。輸入車はすでに、600台にも達しているというのに——。
その後、日本における自動車の保有台数が4千500台を突破しても、その大半は欧米先進国からの輸入。なかでも、アメリカの二大自動車メーカー、フォードとGM(ジェネラル・モータース)がシェアを独占していたといってよい。大正14年(1925)には「日本フォード」社が横浜に誕生し、昭和2年(1927)には「日本GM」社も創業をみた。2社は本国から部品のすべてを輸入し、日本で組み立て、販売を本格化していく。
日本にもわずか3社ながら、国産自動車のメーカーは存在したが、外国車の供給台数が2万~3万台に伸びているとき、国産の供給台数は400台ほどにすぎなかった。
しかも、コストは高く性能ははるかに劣っていた。メーカーは再編をくり返しながら行き詰まっていく。
「日本に自動車産業は根づかない」
誰しもがそう思っていた中で、大きく遅れをとっている日本の現状を承知していながら、それでいてあえて、フォードやシボレーなどの大衆乗用車と真っ向勝負を挑もうとする男が現われた。「織機の発明王」豊田佐吉の息子・喜一郎であった。彼にはこの逆境の中で、いかなる勝算があったのだろうか。
かつて紡績機械は外国品万能で内地品を見向きもしなかったものを、此の数年間に全く輸入を止め、内地品万能の時代を至らしめたと同じ経験を繰り返す事によって自動車工業も必ず確立できると考えました。
(豊田喜一郎著『トヨタ自動車躍進譜』より)
喜一郎、否、“トヨタ”には、先発する紡機における成功体験があった。
明治27年6月11日、佐吉の長男に生まれた喜一郎は、父親が発明と経営の板挟みにあって苦労している姿を見ながら成長した。
旧制第二高等学校(仙台)に学び、東京帝国大学工学部機械工学科を出た彼は、父の「豊田紡織」に卒業とともに入社している。
この息子に、佐吉は
「発明などというものはなかなか出来るものではない。そんなものに没頭するより、紡績事業(経営)をしっかりやれ」
と諭した。佐吉の言葉は本音であったに違いない。喜一郎は生後2ヵ月ほどで生母と生別しているが、原因は佐吉の発明への執念、それによる生活苦であったかと考えられる。
しかし、喜一郎は発明家の父の影響を色濃く受け継ぎ、同じ道を志した。否、のちのトヨタ自動車そのものが、佐吉の教えを今に抱きつづけているというべきか。
昭和10年(1935)10月に、“トヨタ”では「豊田綱領」という5ヵ条が成文化された。
その中に、次の一項があった。
一、研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし。
豊田自動織機製作所の常務取締役として、自動織機に関する特許の譲渡交渉を行なうため、喜一郎が渡米したのが昭和4年9月のことであった。
この時、彼はアメリカの自動車メーカーを巡り、いよいよ“自動車への夢”を実地に移すことになる。翌5年3月、帰国した喜一郎は小型ガソリンエンジンの試作を開始。第1号エンジンを、昭和6年7月に完成させた。
2年後の9月、豊田自動織機製作所に自動車部設立される。そして、昭和12年8月、トヨタ自動車工業が正式に設立された。 社長には、喜一郎の異母妹・愛子の夫たる豊田利三郎(東洋綿花・のちトーメンの創業者の実弟)が就任。副社長には、事実上の創業者である喜一郎がついた。経営全般は利三郎が、開発は喜一郎が——二人はお互いの役割分担を、綿密に話し合ったようだ。(この項つづく)
掲載日:2006年2月1日