あの人気商品はこうして開発された「食品編」
「シーチキン」食の欧米化を見越した先見の明
サンドイッチやおにぎりの具材、サラダのトッピングとして食卓での頻出度が高いツナ缶。今では当たり前のように使われている同食品だが後に、はごろもフーズとなる後藤缶詰所がツナ缶「シーチキン」を発売しなければ、今ほどの利用のされ方はなかったのかもしれない。昭和初期に日本で初めて静岡県の水産試験場が開発したマグロ油漬缶詰は、主に外貨獲得のための対米輸出品として扱われた。戦中には軍需物資となり、一般家庭で日常的に口にする食品ではなかった。ツナ缶が普及し出したのは戦後になってからで、そこには「これからは食文化の欧米化が進む」と直感したはごろもフーズ前会長の二代目・後藤磯吉の決断があった。
対米輸出品だったツナ缶
1947年に初代・後藤磯吉からマグロ油漬缶詰やミカン缶詰を輸出向けに製造販売していた後藤缶詰所(1931年創業、現はごろもフーズ)を継いだ二代目・後藤磯吉(以下、後藤氏)は、輸出依存度の高い企業体質に懸念を抱いていた。1950年当時、マグロ油漬缶詰の対米輸出が貿易摩擦の種となり、米国で輸入関税の引上げ措置が取られたことなどが背景にあった。
危機感を募らせた後藤氏は思い切った方向転換の道を模索し始めた。それまで外に向いていた視線をふと国内に向けると、そこには未開拓の市場があった。「日本人の食文化は近い将来、必ず欧米化が進む。食生活にマグロ油漬缶詰を取り入れるようになるはず」と直感、力を込めて周囲を説得して回ったという。
マグロ油漬缶詰の国内販売に舵を切ろうとしたその時、後藤氏は商品名にひっかかりを覚えた。「油と言えばオイル、つまり機械油を連想する人が多く、『油漬』では食欲を刺激するネーミングとは言えなかった」(はごろもフーズ)。
若い人にも好んで食べてもらえるような商品名を検討していたところ、海外では原料となるビンナガマグロが「海の鶏(にわとり)」と言われていることに着目。肉質が鶏のささ身に似ていることに由来する。
「海の鶏」を英語に直した「シーチキン」を商品名にすることに決まり、1958年に商標登録された。今ではツナ缶を「シーチキン」と呼ぶことが多いが、同名称を使用できるのは商標権を持つ、はごろもフーズだけだ。
国内販売から10年、伸び悩む
食用油と野菜エキスや塩などを混ぜた調味液にビンナガマグロを漬けた「シーチキン」の国内発売を開始したものの、一般消費者にはあまり馴染みのない食べ物。どのように食べればよいか分からない人が多く、1958年の年間出荷数は1931ケース(1ケース48個入り)と伸び悩んだ。
戦前から販売を委託してきた大手食品卸はこのころ、プライベートブランド(PB)を持っていたため、シーチキンの販売が後回しになっていたことも要因になっていた。また当時は缶詰のネーミングに中身や素材名をそのまま使う商品が多かったため、シーチキンの名前を酷評する得意先もあったという。発売から約10年は苦しい時間が過ぎた。
「食べ方提案」で認知度向上
転機となったのは1967年のことだった。同年6月に名古屋地域でのTVCMを開始。当時、シーチキンは利益を出していない商品だっただけに、高額な費用がかかるTVCMの放映は会社の存続を脅かしかねない選択だった。そのため、後藤氏自身も内心では不安感を抱いていたという。
威信をかけたTVCMで、単純に商品だけを宣伝したのでは10年前の二の舞になってしまう。そのため、同CMでは「奥さま、今晩のおかずにシーチキンはいかが」というキャッチフレーズを使用。食べ方の提案をするように工夫した。
「野菜サラダの需要が増えてくるとツナサラダの提案をするなど、さまざまな提案を行った。メニュー提案の手法は今も、はごろもフーズに受け継がれている」(はごろもフーズ)という。
ニクソン・ショック乗り切る
提案型の宣伝効果はたちどころに数字に表れ、CMを放映した1967年の出荷数は3万ケース、翌68年には10万ケースに跳ね上がった。その後、CMの放映地域を徐々に広げ、73年に全国放映に踏み切った。すると、認知度が高まり翌74年には出荷数が100万ケースを超えた。
またCMだけでなく75年には消費者向けの販売促進企画「奥様おこづかいプレゼントセール」を企画。シーチキンの缶ふたを送ると抽選で5000人に賞金(1等2000円)を贈るキャンペーンを実施した。同キャンペーンでの応募総数は167万通を超えブランドの浸透に貢献した。
シーチキンが出荷数を伸ばしていった当時は、リチャード・ニクソン米大統領が71年に行った金ドル交換停止や10%の輸入課徴金の導入などの経済政策に起因して、輸出産業を中心に日本経済が大打撃を受けていた時期だ。だが、はごろもフーズはすでに輸出から国内販売に基軸を移していたため、缶詰業界が苦境に立たされている中でも、ニクソン・ショックの荒波を乗り切ることができた。
勢いをそのままに、81年にはキハダマグロを原料にした「シーチキン・L」と、カツオを使った「シーチキン・マイルド」を発売しラインアップを充実させていった。現在の「シーチキン」ブランドの出荷数は「年間約3億ケース」(はごろもフーズ)。商品数は27種類にのぼる。
人の目と手で肉質をチェック
はごろもフーズによると、同社の国内ツナ缶市場シェアは約50%。市場自体は近年横ばいで推移しているが、トップシェアを守り続けている。
ここまで伸長した裏には、効果的な広告宣伝活動だけではなく「徹底した品質のこだわり」(はごろもフーズ)がある。
ビンナガマグロなどの原材料は解凍し蒸した後、血合いや細かな血管、骨、内出血した部位を人の手で取り除く。食品機械でなく手作業で行うため、生産効率は悪くなるが「魚には個体差があり、工程を自動化するのは難しい。また効率以上に、人の目と手を通すことで色や柔らかさなどの肉質をチェックすることができる。白くキレイな肉にするには欠かせない工程」(同)と力を込める。
使いやすく親しみのある「シーチキン」になるように
はごろもフーズは、消費者の使いやすさにも注意を払い1982年には、それまでの缶切りを使ってふたを開けるタイプから片手で簡単に開けられるプルタグタイプのイージーオープン缶を業界に先駆けて採用。2013年にはさらに進化させて、お年寄りやつめの長い女性でも無理なく開封できるようにシールタイプのふた「やさし~る」(商標権取得)を使ったシーチキンを発売、消費者の簡便性ニーズに応えている。
はごろもフーズは、消費者の使いやすさにも注意を払い1982年には、それまでの缶切りを使ってふたを開けるタイプから片手で簡単に開けられるプルタグタイプのイージーオープン缶を業界に先駆けて採用。2013年にはさらに進化させて、お年寄りやつめの長い女性でも無理なく開封できるようにシールタイプのふた「やさし~る」(商標権取得)を使ったシーチキンを発売、消費者の簡便性ニーズに応えている。
また、よりシーチキンに親しみをもってもらうために消費者とのコミュニケーションを強化し、今年1月23日には昭和初期の輸出用ツナ缶ラベルを復刻させた「シーチキンファンシー」を静岡県限定で発売した。富士山が13年6月に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録されたこと受けた記念の一環で、ラベルには富士山のほか、富士山とともに世界遺産に登録された三保の松原(静岡市清水区)や羽衣(はごろも)をまとった天女、原材料のマグロが描かれている。
化粧箱にはNPO法人「富士山を世界遺産にする国民会議」のロゴマークを掲載。富士山の保全活動やPR活動の支援を行っていく。はごろもフーズの社名は、創業地の清水市(現静岡市清水区)に伝わる天女の羽衣伝説に由来する。「創業当初から使っていた『富士山・三保の松原・天女』の絵柄は、はごろもフーズにとって象徴的存在」(はごろもフーズ)という。
食生活の欧米化を見込み、いち早くツナ缶を国内市場に投入したはごろもフーズ。ツナ缶の利用法が消費者にうまく伝わらず辛酸をなめた時期もあった。だが、効果的な宣伝活動や品質の追求が消費者から支持を得て、シーチキンはおにぎりや野菜サラダの具材などさまざまな用途に広がった。今ではなくてはならない食材の一つになっている。
企業データ
- 企業名
- はごろもフーズ株式会社
- Webサイト
- 代表者
- 代表取締役社長:溝口康博
- 所在地
- 静岡県静岡市清水区島崎町151
掲載日:2014年3月19日