あの人気商品はこうして開発された「飲料編」
「カルピス」おいしい乳酸菌飲料をつくり出したい!
1902(明治35)年、英語教師の三島海雲は当時の青少年あこがれの地・中国に渡り、教師から雑貨商へと転身した。そして2年後、海雲は事業で内モンゴルまで足を延ばし、そこで地元の遊牧民から酸っぱい乳とクリームのようなものを振る舞われた。長旅で胃腸が弱っていた海雲だったが、これを毎日摂るうち体はすっかり調子を取り戻した。このとき海雲が口にした酸っぱい乳は、馬や牛の乳を乳酸菌で発酵させた「酸乳」であり、モンゴル民族の日常食でもあった。
この海雲こそ、のちに日本初の乳酸菌飲料「カルピス」をつくり出した事業家であり、カルピス社(前身・ラクトー社)の創業者である。ここからは、海雲による「カルピス」誕生の物語をつづっていこう。
カルピス、誕生!
1915(大正4)年、中国から帰国していた三島海雲はたまたま大阪でヨーグルトを試食した。が、あまりおいしくない。ならばと自ら乳酸菌を活用した食品をつくり出すことを考えた。そして翌16年に醍醐味合資会社を設立し、内モンゴル滞在中に学んだ酸乳の研究を始める。結果、同年には酸乳を発酵させて砂糖を加えたクリーム「醍醐味」を開発・発売し、さらにその製造過程で残る脱脂乳を乳酸菌で発酵させた食品「醍醐素」も開発・発売した。
翌17年にはラクトー株式会社(カルピス社の前身)を創立し、生きた乳酸菌の入ったキャラメル「ラクトーキャラメル」を18年に発売。しかし、「醍醐味」「醍醐素」ともに原料の牛乳を安定的に集められず、また、「醍醐味」は大量生産できない、「ラクトーキャラメル」は夏場に溶けてしまうといった原因から、商品の継続を断念せざるを得なかった。
しかし、乳酸菌を用いた商品開発への情熱は衰えない。その思いからか、ふとしたことから「醍醐素」に砂糖を加えて1~2日置いてみるとおいしくなっていることに気づいた。この偶然も海雲の執念がたぐり寄せたものだろう。砂糖の混合率や「醍醐素」の酵母菌の種類、発酵・熟成の最適条件を追究し、独自の乳酸菌飲料をつくることに成功。そして、この飲料にカルシウムを加えることで栄養的価値と付加価値を高め、19(大正8)年、ついに日本初の乳酸菌飲料「カルピス」を誕生させたのである。
カルピスの「カル」はカルシウム、ピスはサンスクリッド語の「サルピス」(熟酥)に由来する。仏教には、牛乳を精製する過程の5段階の味を「乳」→「酪」→「生酥」→「熟酥」→「醍醐」と表す。最高の味が「醍醐」であり、サンスクリッド語では「サルピルマンダラ」と呼ぶ。「カルピス」も当初は最高の味という意から「カルピル」と命名される予定だったが、歯切れがわるいことから次位(熟酥)の「サルピス」を採用して商品名の由来とした。
刺激的なキャッチフレーズだった「初恋の味」
発売当時の「カルピス」の価格は400ml入り大びんで1円60銭、180ml入り小びんで80銭だった。大正末期のラムネ(170ml)8銭やサイダー(360 ml)22銭、牛乳(180ml)10銭に比べると高価な飲みものと思われた。が、「カルピス」は原液であるため薄めて飲むことを考えればそれほど高価ではない。薄めて飲む経済的な飲料であることを訴求するため広告を打った。当初の広告は経済性を訴えるものだったが、やがてそれは文化性とエンターテイメント性をともなったものへと変化していく。
その象徴的な広告が、「初恋の味」のキャッチフレーズだ。なんと20(大正11)年にこの広告を新聞に掲載している。大正浪漫という自由闊達な雰囲気の時代とはいえ、かなり大胆な発想であり、刺激的なキャッチフレーズといえた。
この先進性はのちの広告にも連綿と受け継がれていく。その1つに「空中マラソン競走」とタイトルを書いた広告がある(1922年)。空中マラソン?-みなさんは何を想像するだろうか。これは、動物愛護協会とのタイアップで伝書鳩レースを主催した際の広告だ。富士山頂から東京・日比谷公園まで100羽の伝書鳩を飛ばし、所要時間を当てるという懸賞クイズの広告で、このイベントと広告は大好評を博したという。
「カルピス」の広告の先進性は制作者の名前にもうかがえる。岡本一平(漫画家・故岡本太郎の父)、東郷青児(洋画家)、西条八十(詩人)などそうそうたる芸術家、文化人が「カルピス」の広告に携わっていた。まさに三島海雲の交友の広さを物語っている。
ちなみに、「カルピス」の水玉模様のパッケージが始まったのも「初恋の味」のキャッチフレーズと同じ20年。「カルピス」の発売日(7月7日)である七夕から天の川の銀河の群星をイメージした。当時は夜空を表徴する青地に白い水玉だったが、53年に現在と同じ白地に青い水玉に変わった。
「贅沢な」から日常的な飲みものへ
発売以降、「カルピス」は堅調に売れてはいたものの、急激なヒットを飛ばすということはなかった。さらに、昭和期に入ると戦時統制によって嗜好性の強い飲食品は厳しい統制を受け、「カルピス」も生産を中止せざるを得なくなった。が、しばらくすると一転して軍需物資に認定され、軍用「カルピス」、軍用「カルビタ」(「カルピス」にビタミンを添加)を製造し、軍に納めるようになった。しかし、45(昭和20)年の東京大空襲によって本社・工場(東京・恵比寿)が消失してしまい、「カルピス」の生産は一時中止されてしまった。
「カルピス」の生産が再開されたのは戦後の48年。ただ、当時は砂糖が統制されていたため人工甘味料を使わざるを得ず、ようやく53年に全糖で「カルピス」の生産再開にこぎ着けられた。
昭和30年代までの「カルピス」は、慶事や来客に供されるちょっと贅沢な飲みものと位置づけられ、消費者からは贈答用として購買されることが多かった。それが昭和40年代になると庶民の日常的な飲みものへと変化していく。そのきっかけが、25年間(昭和24-48年)価格を据え置いたことや商品名を冠したテレビアニメ番組(カルピス劇場)をスポンサードしたことだった。「カルピス」は手に入れやすい価格になり、テレビ番組をとおしてお茶の間に浸透した結果、ファミリー飲料として日常的に家庭で飲まれるようになった。
ストレート飲料市場へ進出
発売以来、「カルピス」は原液という商品形態で販売されてきたが、73年に大きな転換点を迎えた。「カルピス」ブランドとして初めてのストレート飲料の発売だ。「カルピス」を炭酸で割った「カルピスソーダ」。若年層をメインターゲットにまずは首都圏限定で販売し、翌74年から全国発売へと拡大。それを機にカルピス社は本格的に飲料事業へと進出した。
さらに91年に「カルピスウォーター」を発売する。「カルピス」に次ぐ基幹商品の開発だった。「カルピスソーダ」に続くストレート飲料だったが、商品化のための技術開発には時間を要した。というのも、炭酸割りの「カルピスソーダ」は低温殺菌が可能だが、炭酸水を含まずに「カルピス」を割るためには別の殺菌法が必要だった。また、割り材が水だと商品の保管中に「カルピス」の成分(乳たんぱく質)が沈殿してしまうため、沈殿しない製法(乳たんぱく質の粒子を微細化する)の確立も必要だった。このように炭酸水割りとは異なる技術の確立に時間が必要だったのだ。
「カルピスウォーター」は爆発的にヒットした。1980年代後半からアウトドアで飲料を楽しむライフスタイルが浸透し、ミネラルウォーターブームや簡便な飲食品への嗜好が高まった社会背景に「カルピスウォーター」が完全に合致した。初年度で販売計画の5倍強を売り上げ、期中には生産が追いつかない状況となり、自社工場と委託工場をフル稼働して対応したというエピソードも残されている。
翌92年も初年度の約1.2倍を売り上げ、「カルピスウォーター」の快進撃は「カルピス」、「カルピスソーダ」の売上増にも効果を及ぼし、「カルピス」ブランド全体を活性化させた。さらに、「カルピスウォーター」の成功により乳性飲料という新しいジャンルが確立し、以後、同社は「フルーツカルピス」シリーズや「味わいカルピス」などの乳性飲料を展開していった。
脈々と受け継がれる創業者の情熱
さらに、「カルピス」の素である「カルピス酸乳」の研究を深めていき、92年には「カルピス酸乳」に含まれる「ラクトトリペプチド(LTP)」に血圧降下作用があることを発見。そして、「ラクトトリペプチド」の血圧降下作用を活現させた健康飲料「アミールS」を97年に発売した。これを機に健康機能性飲料の展開を図り、2000年には「健茶王」(食後の血糖値の上昇をゆるやかにする作用)や「インターバランスL-92」(現在は「アレルケア」のブランド名で販売)などをリリースした。
現在、カルピス社の飲料はストレート飲料、健康飲料、低アルコール飲料の3分野で商品展開している。年間で80アイテム以上が開発され、平均で約30アイテムが商品ラインアップされている。創業期に三島海雲が注いだ乳酸菌商品への情熱は、いまも脈々とカルピス社に受け継がれているのである。
企業データ
- 企業名
- カルピス株式会社
- Webサイト
- 代表者
- 代表取締役社長 山田 藤男
- 所在地
- 東京都渋谷区恵比寿南2-4-1
掲載日:2012年1月 4日