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「豊島屋本店(東京都千代田区)」日本酒の老舗が本格輸出

この記事の内容

  • 創業は慶長元年、江戸の老舗酒蔵。昨年9月、海外市場F/Sでシンガポールへ
  • 1週間で約40カ所を回り、わずか3カ月で成約する速さ。品質が評価された
  • 今後は近隣国への輸出可能性を探り、10年後に売上高輸出比率を2割以上に
旗艦銘柄「十右衛門」を手に、「TOKYOを前面に出して輸出を増やしたい」と話す吉村社長

「シンガポールに輸出商談に行き、短期間で現地の法人と成約でき、すでに初出荷した」—。こう語るのは、豊島屋本店の吉村俊之代表取締役社長だ。

昨年9月、中小機構の海外市場F/S(実現可能性調査)で現地に赴き、1週間で約40カ所を回り、お酒の会も開いた。同社の日本酒を試飲してもらったところ、「日本人が経営する高級和食店から10月に注文をいただき、直接、空輸した」(吉村社長)ほか、12月には卸売業者から6銘柄についてまとまった注文が入った。

F/Sからわずか3カ月で成約に至るケースはまれ。それだけ同社の品質が評価された証といえる。成約先の卸売業者の代表者は1月末にも来日。2月初めに同社の酒蔵「豊島屋酒造」(東京都東村山市)を見学してもらう予定で「一層の信頼関係を築きたい」(同)という。

豊島屋本店は、現在では珍しくなった都内の醸造発売元。しかも驚くのはその歴史と伝統だ。創業は慶長元年(1596年)というから約420年前。江戸の神田・鎌倉河岸(現在の神田橋付近)で、初代豊島屋十右衛門が関西から酒を仕入れ、酒屋兼一杯飲み屋を始めた。酒肴も扱ったことから、〝居酒屋のルーツ〟といわれる。

初代は「白酒」も製造した。もち米と米麹、みりんを使って醸造し、年に1回、ひな祭り前に販売。ひな祭りに白酒を飲む習慣はここから広まったとされる。白酒は昔からの製法で現在も造っている。明治半ばには兵庫・灘で自社醸造を始め、昭和初期には蔵を東京に移設した。そこで日本酒、みりん、白酒を造っているが、なかでも「金婚」は現在でも御神酒として明治神宮、神田明神に同社だけが奉納している。

現在は他社の日本酒や醤油、みりんなどの卸売も行っており、とくに醤油やみりんは「東京の半分近くのそば店と取引がある」という主力商品。「自社商品の売り上げ比率は現在30%程度」という。

豊島屋16代目の吉村社長にも悩みはあった。日本酒の国内市場は1975年ごろをピークに減り続け、現在はその半分以下。東日本大震災以降は「若い人、とくに女性ファンが増えた」が、底打ちには至っていない。

そこで、7、8年前から海外に目を向け始めた。国内市場とは裏腹に、日本酒の輸出量は着実に増え続けている。海外の展示会に積極的に出展したほか、15年には英語だけでなく、多言語のウェブサイトも開設。それと並行して、韓国や台湾などとの取引も始まった。訪日旅行客へのPRも兼ねて、羽田空港の免税店で販売している「純米吟醸 羽田」なども開発し、売れ行きは好調だ。

そんな時、知人から紹介された中小機構の海外支援を受け、協議を続ける中でシンガポールへの輸出を目指す。同国を選んだのは、「欧米などは距離的に遠く、競争も激しい。それにシンガポールは所得水準が高いため」だ。「量より質」を重んじる同社の方針とも合致した。

9月の訪問では、創業者の名を冠した旗艦銘柄「十右衛門」をはじめ、5種程度の銘柄を持ち込み、卸、小売店、飲食店などと商談。「現地では思ったより日本酒が販売されライバルは多かった」が、おおむね好評だったという。

今回の本格輸出をきっかけとして、将来的には周辺のマレーシア、タイ、ベトナムへの輸出可能性も探り、「10年後には売り上げに占める輸出比率を2割以上にしたい」と意気込む。とくに東京産の日本酒は数が少ないだけに「TOKYOを前面に出したい」考え。

豊島屋の口伝の家訓は「お客様第一、信用第一」、行動指針は「不易流行」。守るべきもの(不易)はかたくなに守り、時代とともに変えるべきもの(流行)は大胆に変える。時代を越えてその精神を受け継いだ吉村社長の海外市場への挑戦が始まった。

企業データ

企業名
豊島屋本店
Webサイト
資本金
2500万円
従業員数
20人
代表者
吉村俊之氏
所在地
東京都千代田区猿楽町1-5-1
事業内容
醸造販売、酒類等卸売
創業
慶長元年(1596年)