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悠久散歩―史実にみるビジネスのヒント


二元体制による混乱

江戸時代にもあったねじれ現象

一国ニ政府体制がもたらした桜田門外の変。民主党政権発足の直前、国会はいわゆいるねじれ現象にあった。この状況をある報道番組で「一国二政府状態」と称していたが、その例は江戸時代、しかも幕末にもあった。

藩の力が増し、朝廷の存在感が高まる

歴史をさかのぼれば平安時代の上皇による院政や南北朝など、2つの政府が存在していたことはままある。江戸時代開幕期の第二代将軍秀忠に対して行なった家康の大御所政治もその列に連なるだろう。

そもそも鎌倉以降の幕府体制は、厳密にいえば天皇の朝廷が将軍を宣下するという形式をとっていた。つまり京都には朝廷が君臨し、その元に武士の棟梁たる征夷大将軍が幕府を開き、統治していたのである。

江戸時代の場合には、朝廷―幕府という関係に、各地を実質的に統治していた藩という存在もあったが、幕権が強力であった頃には、朝廷であろうと各藩であろうと幕府の思いのままとなり、朝廷独自の活動は制約され、藩もおとり潰しや配置換えなどが幕府の意向によって行なわれている。幕府による一元体制といってよい。

ところが世が幕末になると様相が変わってくる。幕府の権威が弱まり、藩の力が増大。また「尊王」思想が時代を覆うにつれて、朝廷の存在が重きをなすようになった。

外交権は日本を代表して幕府がもつ

たとえば生麦事件。1862年9月12日、薩摩藩・島津久光が、江戸から帰途中、東海道生麦村(横浜市鶴見区)を通行中にイギリス人4名が馬に乗ったまま行列のなかに入り込んだ。この行為は行列を乱すものとして薩摩藩士の怒りをかい、イギリス人3名が殺傷されてしまう。

イギリスは、幕府に対しては正式の謝罪と賠償金10万ポンド、薩摩藩に対しては犯人の処刑と賠償金2万5000ポンドをそれぞれ要求したのだが、幕府は薩摩藩が起こした事件なのだから全額薩摩藩が負担せよ!とは言い切れない事情があった。

つまり外交権については日本を代表して幕府が有し、もし薩摩藩に責任を押し付けるとなると、幕府自らが外交権を放棄するものと考えられたからだ。それは藩による単独外交の道を開くことになってしまう。

事実、賠償金の払いを拒みつづけた薩摩では、直後に薩英戦争が勃発。薩摩の城下は英国軍艦から発せられた砲弾により焼き払われてしまうが、戦後には英国は薩摩藩に近づき、さまざまな支援をしていくことになる。

二元体制ゆえの政治的混乱だった

ペリー来航以来、アメリカ、イギリスをはじめとした諸外国は、薪水の提供を含む国内諸港の開港を認める条約の締結を求めていた。幕府としては各国交渉方の強圧的な態度もあり、通商条約の締結もやむなしとの雰囲気になっていたのだが、尊皇攘夷に沸き立つ国内世論がそれを許さない。

時の老中・堀田正睦は孝明天皇の勅許を得て世論を納得させたうえで通商条約を締結することを考えたが、孝明天皇をはじめとする朝廷はそれを拒否。堀田は辞職をし、権力は大老の地位を得た井伊直弼へと変わる。諸外国の追求に屈した井伊は、勅許を得ずして独断で日米通商条約を結んでしまう。

桜田門外の変は、当時の最高権力者の命を葬った。幕府は井伊直弼の死を病死と発表したが、真実を誰もが知ることとなり、幕威失墜につながる桜田門外の変は、当時の最高権力者の命を葬った。幕府は井伊直弼の死を病死と発表したが、真実を誰もが知ることとなり、幕威失墜につながる

とともに将軍後継問題とも絡み、反対派の粛清を果たしたが、世にいう安政の大獄だ。その後、井伊は水戸藩士を中心とした攘夷派の襲撃を受け、桜田門近くにて命を落とす。いわゆる桜田門外の変だ。

藩の力が増し、朝廷の存在感が高まる――。藩―幕府、幕府―朝廷という諸外国から見れば二元とも三元ともとれる幕末の体制であったのだが、それゆえに国内の政治的混乱はたやすく想像できる。世が世ならば、一介の藩士が大老を暗殺することなどはおよびもつかないことであった。


掲載日:2010年6月14日

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