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悠久散歩―史実にみるビジネスのヒント


負け戦に出陣した大谷吉継という生き方

戦国武将・大谷吉継

豊臣秀吉をして、「100万人の軍勢を指揮とらせてみたい男」といわしめた戦国武将に、大谷吉継がいる。もともとの出自は北政所(秀吉の妻)の縁故ともいわれているが、知勇兼備の名将であった。

100万人の軍勢を指揮とらせてみたい男

天正11(1583)年の賤ヶ岳合戦では、先陣として敵将・佐久間盛政の部隊に切り込み、有名な「七本槍」に劣らない功績を挙げた。また秀吉の関白就任後には、吉継は秀吉から奉行職の大抜擢を受けた。さらに島津氏への攻勢を強めた九州征伐では、石田三成とともに兵站奉行を務め、日本はじまって以来という12万人もの軍勢がうごめく軍事作戦が、まったく支障をきたすことなく見事に働いた。

その吉継だが、秀吉死後は徳川家康に心を寄せる。武将としての力量とともに、人間としての風格に武人として好ましく思っていたようである。実際に家康が、会津の上杉征伐に向かうさいには、所領である敦賀から東上軍に加わるべく、出陣。途中、石田三成の子と同道するために三成の居城・三和山城に立ち寄る。そこで三成から挙兵を打ち明けられるのである。

吉継が見た場合、三成の挙兵は暴挙としかいいようがなかった。時代の趨勢として、もはや利は家康にあることや、さらに三成自身の人望のなさを指摘し、思いとどまるよう忠告した。まさに親友なればこその諫言であろう。しかもそれは三度にもおよんだという。

しかし結局のところ、三成との友情に殉じ、吉継は関ヶ原の合戦では西軍に荷担することとなった。それはなぜか。じつは吉継は、若い頃より業病を患っていた。それは当時死病として恐れられていたハンセン病であったといわれる。事実、吉継は病により顔が崩れたため、白布で顔を覆うほどであった。

友情に殉じた関ヶ原の合戦

その吉継と三成にはこんなエピソードがある。秀吉が起こした朝鮮の役。吉継は軍監として渡朝したが、戦後、その功が称えられ秀吉が大阪城で開催した茶の席に招かれた。その席で緊張のあまりか吉継は、鼻水を茶碗のなかに落としてしまう。

それを見た諸将は以降、飲む真似をするだけであったが、席に列していた三成は、何事もないように茶碗のなかの茶をすべて飲み干してしまった。その夜、吉継はひとり寝所で男泣きに泣いた、と伝えられている。業病と戦う自身への、へだたりのない三成の友情に感激したためである(三成ではなく、秀吉であったという説もある)。

三成の挙兵については、名将として名高い吉継にすれば、勝利のありかは一目瞭然であったに違いない。しかし戦いの勝敗を超えた行動の奥底には、三成に対する友情が熱く広がっていたのである。

事実、関ヶ原の合戦における吉継の戦いぶりは、他を圧倒した。そのときすでに吉継は、病の進行により馬に乗ることもできず家臣に担がせた輿で指揮をとり、ほとんど失明寸前であったにもかかわらず、自軍を一糸乱れぬ采配で率いていた。さらには不穏な動きを示していた小早川秀秋軍にも気を配り、数千という自軍からその手当てすら行なっていたという。

西軍優勢の戦いの最中、小早川軍が裏切ったときにはあわてることなく対応をし、10倍もあろうかという敵軍を押し返してもいる。しかし第2、第3の裏切りがでたことにおよんで、ついには吉継の軍勢は壊滅し、吉継自身も自害して果てた。その首は、決して敵軍に渡らぬよう関ヶ原の地中深くに埋められたという。

戦国の世では、自身の利、出世のためには、主君を、味方を裏切ることがままあった。しかしその一方で、吉継のような友情、義を貫いた武将もいたこともまた事実である。大谷吉継が、いまもなお人気が高い戦国武将のひとりであるのは、まさにそれは現代人の忘れてしまった心を揺さぶる生き方だからなのである。


掲載日:2009年12月28日

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