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悠久散歩―史実にみるビジネスのヒント


現代の企業社会に通じるもの

本能寺の変の遠因となった 信長のリストラ政策!?

佐久間信盛といえば、織田信長が家督を継いだ当初からの宿老(家老)であり、長きにわたり信長に抵抗した石山本願寺攻めの主将であった。言ってみれば織田家発展に尽くしてきた功労者といえよう。

一気に追放された織田家の重臣たち

ところがである。10年にわたって抵抗した石山本願寺が降り、開城となった天正8(1580)年8月15日、信長は突然自筆の書状を佐久間信盛とその子、信栄に送りつける。19条からなるその文書は激烈な怒りに終始し、およそ功労者に与える内容ではなかった。

「(本願寺攻めにさいして)父子とも、善悪にかかわらず目立った働きをしていない。本願寺は強敵ではあるが、武力がおよばなければ、調略するなり、他に応援を頼むなり、なにか方法があろう。欲が深く、吝嗇(=けち)で、よい家臣を抱えようともしないから、こうなるのだ。信長が家督を継いで30年になるが、これまで比類ない働きをしたことが一度もないではないか。この上は、父子とも剃髪して、高野山に移り住め」

結果、佐久間信盛父子は、高野山に追放されてしまう。しかも信盛弾劾の書を送付した2日後に信長は、これまた織田家に長く重臣として活躍をしてきた林道勝にも弾劾の書を送り、糾弾する。

その理由といえば、信長の父、信秀亡き後の家督後継に、林通勝は信長の弟である信行を推した、ということであった。これは四半世紀も前のことを持ち出しての難詰であり、追放された通勝はその数カ月後に失意の中で死去している。

清洲公園内に建立された織田信長像。佐久間・林の両重臣の追放は、多くの部下たちを震え上がらせた清洲公園内に建立された織田信長像。佐久間・林の両重臣の追放は、多くの部下たちを震え上がらせた

本能寺の変はリストラ政策が招いた!?

信長自身は佐久間・林の追放劇の2年後、天正10年6月に明智光秀の謀反にあい、天下統一の志半ばで自死する。いわゆる本能寺の変だ。この明智光秀が謀反した理由について巷間さまざまな説がささやかれているが、佐久間信盛父子、林通勝の追放劇が遠因にあったということも有力な説のひとつ。

信長よりも年齢的には上であった光秀は、佐久間、林という生え抜きの重臣の追放という事実を目の当たりに、自身の将来に不安をいだきはじめていたのではないかと考えられるのだ。本能寺の変直前、上洛した徳川家康の接待役であった光秀は、食材の魚を腐らすという失敗をし、信長の逆鱗に触れる。そのことも相まって、近い将来自分も捨てられるのではと恐慌に陥り、謀反に至ったというのである。

光秀単独犯説の一方で何者かの黒幕説も有力だ。そのひとつが羽柴秀吉黒幕説。先の佐久間父子を弾劾した書には、佐久間父子の至らなさを指弾する一方で、「光秀の働きは天下に面目をほどこした。次に羽柴藤吉郎は、数カ国を攻め比類ない。池田恒興も天下の覚えを取り、柴田勝家も同様に加賀一国平均を云々」と他の武将を褒め称えている。

ご覧のとおりに第一に光秀の働きを述べ、秀吉の働きは「次」で、さらに池田恒興、柴田勝家と並んでおり、信長の家臣に対する評価序列をみることができる。そこで秀吉である。もし秀吉がこの序列をみたとしたら、はたしてどう思うであろうか。人品家柄ともすぐれた光秀に生涯屈していくことを考えたのではないだろうか。そこで信長・光秀を一挙に葬り、自らが天下人となることを望んだら……。

門閥主義から能力主義へといち早く移行していた織田信長にすれば、佐久間信盛父子、林通勝の追放劇は、織田家の直轄領を増やすためのリストラ政策であったかもしれない。彼らの悲哀は、まさに現代の企業社会に通じるものがあり、光秀、秀吉にもまとわりついていくことになるのである。


掲載日:2009年6月29日

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