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悠久散歩―史実にみるビジネスのヒント


後世に伝わる「無私の心」

土佐藩の礎を作った野中兼山の生き方

高知を訪れた。NHK大河ドラマ「功名が辻」で名を知られる山内一豊を初代藩主とする土佐藩の藩都であり、ここからは坂本竜馬、板垣退助など幕末の志士が巣立っていった。その土佐藩の礎を作りあげたのが野中兼山である。

私欲なき兼山の一念は天に通じる

兼山は江戸初期の土佐藩の執政として腕をふるった。彼の生涯については子母沢寛が「大道」という作品で残しているが、兼山は約30年にわたって藩政を担当し、大規模な新田開発、産業の振興、港・堤防の整備、人材登用に力を尽くし、藩の基盤を作りあげた。

土佐藩の隆盛は、野中兼山の業績に負うことが大きかった。彼の評価は時を経るごとに高まっていったのである土佐藩の隆盛は、野中兼山の業績に負うことが大きかった。彼の評価は時を経るごとに高まっていったのである土佐藩の隆盛は、野中兼山の業績に負うことが大きかった。彼の評価は時を経るごとに高まっていったのである

彼の生き様を知らしめるひとつのエピソードがある。ある嵐の夜のこと。馬すらもたじろぐような風雨吹きすさぶなか、灌漑のために築いたばかりの堤防が切れるのではないかと、ひとりの役人が見回りにでる。

見れば豪雨により、川はどんどんと水かさを増していく。そのなかで役人はふと気づく、その堤防の上で腹ばいとなった武士の存在を。兼山であった。彼は藩を預かる執政として堤防の無事をたしかめるため、嵐をついて出てきたのである。

兼山は轟々と流れいく川面を見つめながら、役人にこう語る。 「この堤は、未来永劫切れることはない。なぜなら野中兼山、私のためにひと塊の土、ひと筋の水も動かしていない。すべて藩主のため、領民のため、ひいては日本国のためだ。この心を誰も知らなくても天のみは知っている」

誰も知らなくても「無私の心」が天を動かすと信じきり、動じなかったのだ。事実、堤防は彼の確信とおりに、大嵐にも磐石であった。まさに私欲なき彼の一念は天に通じたのだ。

本当の偉大さは時とともに必ず明らかになる

彼はいう。「たとえ90歳、100歳まで長生きしても、死後ひとりもその名を伝えないのでは、虻(あぶ)も同然である。長生きのかいもない」

その言葉とおりに、兼山は多くの事業を成し遂げた。やはりそのあり様を快く思わない反対派がいた。藩主の信頼を得、兼山が登用した人材が大きな勢力となるのを脅威と感じる一派だ。

彼らは藩主の交代時をきっかけに攻勢を強め、ついには讒言(ざんげん)をもとにした告発の書を新藩主に提出する。大義名分を整え、美辞麗句で飾った告発書をだ。そのわずか10日後には、新藩主の決定により兼山は解任された。彼は自邸にて謹慎を余儀なくされた。

兼山が登用した人々の追放もはじまり、彼自身にも切腹の命が下されるだろうとの噂が伝わってきた。しかし兼山は微動だにしない。「私は幸福者だ。土佐のため、日本国のために尽くしてきた。港も堤も、河も山も、みなその兼山の血潮とともに残ってくれる」と。

結局、兼山は病をえて急死してしまう。彼の死後、藩権力はより強圧的となり、兼山の一家を1カ所に押し込め、男児が死に絶えるまで40年にわたって幽閉を続けたという。しかし兼山の偉業は、土佐藩繁栄の礎となって後世の評価を得る。先に述べたように幕末の動乱期に土佐藩がその一翼を担ったのも、淵源をたどれば兼山の業績にゆきつく。

歴史上の偉人には迫害がつきものである。それが歴史の必然であるかもしれない。しかし、その人物の本当の偉大さは時とともに必ず明らかになる。野中兼山の生き方は、まさにその一点を我々に教えてくれる。


掲載日:2009年4月20日

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