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悠久散歩―史実にみるビジネスのヒント


才を隠さない生き方

「そのとき左手は何をしていたのか」 と問う黒田官兵衛の凄み

黒田官兵衛といえば、竹中半兵衛とならび豊臣秀吉の軍師としてその辣腕をふるった人物。あふれる才能に畏怖した秀吉、家康は彼を冷遇する。

「次の天下をとらしてみたい」

毛利家や四国の三好家などに囲まれた中国地方にて「これからは織田家の時代」と早々に見切った官兵衛は、地方大名・小寺氏の家老の分際にもかかわらず、秀吉に恭順し、厚遇される。しかし摂津(大阪)の地で叛旗を翻した荒木村重の説得に赴いたときに逆に捕らえられ、土牢に押しこめられる。その生活がたたり、救出された後の彼は生涯片足を引きずりながらの生活を余儀なくされるのだ。

彼は後に黒田如水と改名する。それにはこんな経緯があった。
 あるとき、秀吉が家来たちにふざけ半分でこう言った。「自分が死んだら、代わって天下を保つのは誰か?遠慮なくいってみよ」。家来たちは、当時実力が喧伝されていた前田利家、徳川家康などの名を口にしたが秀吉は頭を横に振って答えた。「違う。それは、あの黒田官兵衛だ」「しかし彼はたかだか10万石の大名。とても天下人になどにはなれないのでは」と家来がいう。

そこで秀吉は言った。「自分はこれまでの合戦で、あれやこれや決めかねたことも多い。そんなとき官兵衛に尋ねるとたちどころに裁断し、自分が練りに練った考えと一致していた。ときにはワシの意表をつく考えさえ何度かあった。あの男の心は剛穀で、思慮深く、まさに天下に比類ない。彼が望むなら、いますぐにでも天下を譲るだろう」。これを伝え聞いた官兵衛は、「これはわが家の災いの元」とつぶやき、剃髪して如水と号したのだ。

秀吉が語るこの手の話は、「百万の軍の指揮をとらせてみたい」といわれた大谷吉継や蒲生氏郷にもある。ただ官兵衛の凄みは、我が子秀頼の将来を考えた秀吉に、禍としていずれの日にか滅ぼされるかも知れないという危険を察知し、あっさりと剃髪・隠居をしてしまったことにある。

関が原の合戦以降、息子・長政は恩賞として筑前52万石の城主に。しかし官兵衛にはまったく恩賞はなかったという

九州平定にも恩賞はなく…

もちろん隠居後も、その凄みは衰えていない。秀吉死後、天下は東西に分かれ、その帰趨がどうなるか見当つかなくなっていく。そこで官兵衛は大志を抱くのだ。東西の争乱に乗じ、自ら九州を統一。その勢いにのって中央で三成、家康と対峙しようと。

息子・長政が家康側に加担したため、結果として東軍として九州制圧に乗り出したわけだが、連戦連勝。いよいよ大志に向かって、、、、、というわけにはいかなかった。関が原の合戦が一日で終わり、天下は徳川家康のものになってしまったからだ。

こんな後日談がある。関ヶ原の戦いで東軍が勝ち、手柄を立てた長政が官兵衛にむかって、「家康公は我が手を取って、頭に押しいただき、『この勝利はひとえに御辺のおかげでござる』と申されました」と得意気に報告した。その長政に、官兵衛は、「家康公が押しいただいた手は右か左か」と聞き返したという。

不思議な問いにまごつきながら、長政が「右手でありました」と答えると、官兵衛は「その時、おまえの左手は何をしていたのか」。長政は思わず絶句した。空いているほうの手で家康を刺し殺すことができたのではないのか、という意味だったからだ。

結果として、関が原の合戦の論功にも官兵衛の名は挙がらず、恩賞はなかった。家康が官兵衛の実力を恐れたからだといわれている。誰もがその才を認め、その才を決して隠そうとはしなかった黒田官兵衛。だからこそ疎んじられてしまったのが興味深い。


掲載日:2008年8月18日

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