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悠久散歩―史実にみるビジネスのヒント


新しい時代に生き残る術

決して生き残ることはできない烏合の衆の自己保存の原理

自らが生き残るために時勢を天秤にかける。しかしそれだけでは決して生き残っていくことはできない。

自己保存の原理は烏合の衆の原理だ

徳川慶喜の大号令ではじまった第二次長州征伐。すでに薩長同盟を締結していた薩摩藩の尽力もあったのだが、幕府軍はどうも気勢が上がらない。長州の四方から攻め入るはずであったのだが、大村益次郎が指揮する長州軍の反撃にあい、権威の象徴でもあった城をふたつも奪われるという惨敗をする。

勝利をあげた長州軍が凱旋するさい、「敵に後ろを向けると、親幕藩が追撃してこないか」と心配する向きもあったが、総司令官である大村は言下に否定する。「攻めてはこない。封建の世とはそういうものです」。

当時すでに藩には自己保存の原理しかなく、他藩、極論すれば幕府がどうなってもかまわない。いかに自分の藩が存続するかだけに汲汲とする。大村はそう見切っていたのである。「だから幕府軍は極端な烏合の衆であり、結果として極端に弱かったのだ」。大村はそうも言葉を続ける。

時を下って、幕府、薩長の命運をかけた鳥羽伏見の戦い。すでに大政を奉還した徳川家に対し、あくまでも武力討伐をめざした薩長連合軍がしかけた戦いである。徳川家総領の徳川慶喜は大阪に引き上げていたが、京から大阪に至るまでの街道の道々には兵を配す。

結果として徳川家をはじめとした旧幕府軍は、完膚なきまでに叩きのめされ、大阪へと撤収。しかも大阪城で陣容の立て直しを図るまでもなく、大阪湾上に停泊して軍船に乗って、江戸へと逃げ帰ってしまう。そこから江戸、東北、函館へとつづく戊辰戦争となっていくわけだ。

官軍となった薩長に抗うために江戸では彰義隊が決起。その場所は現在上野公園となっている。所詮は烏合の衆であったが

時代の奔流の前には原理は通用しない

しかしこの鳥羽伏見の戦い、当時の薩長の指導者にしてみれば、どうも勝ち目のない戦いとしか思えなかったらしい。実際大阪・京にいた徳川軍の兵力は1万5000人とも4万人ともいわれていた。一方で薩長軍は3000〜4000人。せめてもの救いが、そのほぼ全員が最新鋭の小銃で武装していたことにあった。薩長の方針は、「もし戦闘で敗れたら、天子をかついで丹波に逃げる」というものであった。しかし結果は、幕府軍の惨敗。それは何故か?

慶喜自身の恭順の姿勢が組織の勢いをそいだということもあるが、それよりも大軍を擁した幕府軍の実戦部隊が、会津藩と新撰組程度しかいなかったというのが敗走の要因である。

時世を見るに敏という言い方もできるが、幕府軍に属した諸藩はつねに及び腰。長州軍の洛中侵入を容認するなど、革命がどちらにころんでも藩の生存が図れるよう天秤にかけていた。

もちろん維新後は藩そのものが消滅してしまった。ついでに時世も、自藩の存亡を賭け幕末を駆け抜けた薩長両藩のものとなった。少なくとも旗幟を鮮明にし薩長に与した土佐藩、佐賀藩などの少数の藩のみが、参議の職を得、政権に参画することができたのだ。

新しい価値観の前に、ふるい価値観はその姿を消していく。ただその時流を読み、その流れに飛び込む勇気をもつことが、新しい時代に生き残る術に違いない。時代の奔流の前に、自己保存の原理などは通用しないのである。


掲載日:2008年7月 7日

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