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経営!一歩前へ!


日本再生へのヒント

100億円の赤字から8年で黒字経営へ 山田方谷に学ぶ“企業再生”の手法

幕末期、破綻寸前だった備中松山藩(岡山県高梁市)の財政。負債額は10万両、現在にして100億円以上になる。それをわずか8年で黒字に転換、しかも余剰金を10万両蓄財させた敏腕藩士山田方谷(やまだほうこく)。彼の改革の手法は現代の企業再生の手法そのものといわれている。

農民出身の総務部長による会社経営大改革

幕末の日本には260余りの“藩”があり、それぞれ大名が経営をしていた。完全な自己完結型財政であり、石高制の崩壊と商人の台頭による貨幣経済の浸透で、ほとんどの藩が困窮していた。開国後、力のある新進的な大名は商社化し、武士は商人化することで破綻寸前の財政を建て直した。

備中松山藩もそのひとつ。10万両、現在にして100億円以上といわれる借金から藩財政を黒字化し、さらに10万両の蓄財をする。その建て直しをわずか8年でなしとげた人物がいた――山田方谷。藩政改革といっても上杉鷹山のような藩主ではない。

備中松山藩の農家の出身だが、学問で身を立て藩士になった、当時では異例の出世をした人物だ。養子藩主板倉勝静が、崩壊寸前の江戸幕府の寺社奉行、そして老中に大抜擢され、幕政に集中。そこで自らの師であり、絶対の信頼をおく方谷に藩の改革をゆだねたのだ。現代でいうと社長の腹心、参謀となる会社役員である。

作家の童門冬二氏は、著書『山田方谷 河井継之助が学んだ藩政改革の師』において、「留守がちな社長の代行者。主人である社長が中央の連合団体の役員を務めたために、会社の業務は重役の方谷が背負って立った」や「養子社長と農民出身総務部長というコンビで改革を行なった」と表現している。

日本では希な“人名が駅名になっている”駅、JR方谷駅(岡山県高梁市長瀬)。山のなかの無人駅で、山田方谷が開墾屋敷を構えた場所に位置する(写真提供:藤本典夫)

粉飾決済により破綻寸前

さて、方谷が改革にあたる前の藩の財政を見てみると・・・。当時の経済力はその藩でとれる米の量(単位は「石(こく)」)で表わされた。国でいう税収の総額、会社でいう総売上高である。備中松山藩の場合公称5万石。親会社である徳川幕府には、この5万石に見合った税を納め続けていた。

ちょっとまった! をかけたのが方谷。藩の予算管理をする「大福帳」の整理(彼は日本で最初に簿記を実践した人物ともいわれる)、年貢高の調査を徹底的に行なうと、実質2万石にも満たないことが発覚。公称石高の半分にも満たない収入で、2倍以上の支出を行なっていたことになる。

メンツを重んじる時代だったとはいえ、これでは借金が10万両もありえる話だ。現代でも会社のよし悪しを判断するときに指標とする年商、大きく見せたい気持ちは経営者なら理解できるだろう。備中松山藩が行なっていたのは、まさに粉飾決済。

財政建て直し成功の秘訣は“率先垂範”

では、藩予算の5倍以上の借金をどうやって返したのだろうか?改革の概要をかいつまむと以下である。

  1. 借金元の大阪商人に藩財政を公開し、返済期限を延期してもらった
  2. 家中に質素倹約を命じ、上級武士には賄賂や接待を受けることを禁止した
  3. 過剰発行で信用を失った藩札を領民の前で焼却、新藩札を発行し兌換を義務化
  4. 藩内で採れる砂金から農作業効率のよい「備中鍬」を作り、大ヒット商品となる
  5. 「撫育局」を設置し、農産物の特産品化と専売化(タバコ、茶、ゆべし、そうめん、和紙を「備中」というブランドで売り出す)による藩の会社組織化
  6. 中間マージンを排除するため特産品は船で江戸に直接運び、江戸の藩邸で直販
  7. 藩士以外の領民の教育にも重点を置き、優秀者は出身に関わらず藩士に登用するという人材育成

など

現代でも通用する手法もある。これらを実践し、わずか8年で10万両の借金を返した。それだけでなく10万両の蓄財までもできた。改革断行の裏には、農民上がりの方谷に対するねたみや悪口も多かったが、それもやがて減っていった。藩の財政ばかりを考え家庭を顧みず、山田家は窮乏。仕方なく山の中の荒地を開墾して食い扶持を稼いでいた、という方谷の身銭を切って藩のために尽くした姿に感動する者も多かったからだ。

トップによる改革は率先垂範が肝要だ。ただし、それを下の者に強要しないこと――これが方谷の考えだ。現在でも同じことがいえるのではないだろうか。「社長の私がここまで努力しているのだから、部下の君たちもそうしろ!」といわれたら部下は反発する。方谷はそれがわかっていて、トップの板倉勝静にもその辺は釘をさしていた。

山田方谷記念館(岡山県阿哲郡大佐町小南)にある方谷像(写真提供:藤本典夫)

名臣といわれる人物には低い身分の出身者が多い

方谷の改革を知った、越後長岡藩の河井継之助ははるばる備中まで訪ね、内弟子となる。のちに継之助は家老となり困窮した長岡藩の藩政を改革する。河井家は老中になれるほどの家柄ではないが、藩主牧野忠恭に能力を見込まれ抜擢された。継之助を描いた小説『峠』の著者司馬遼太郎氏は方谷を評し、「木戸孝允より3倍ほど人間的に偉かった河井継之助が、日本で一番偉い人だと考えた人物」といっている。

方谷と継之助の共通点は、低い身分の出身でありながら、藩政の改革を成功させた人物であるということ。改革を実行した人物が彼ら以外にも、もうひとりいる。それが御三家のひとつ、水戸徳川家の当主徳川斉昭に登用された藤田東湖。水戸学の大成者として有名な彼は、側用人として斉昭の絶大な信頼を得て藩政の改革を行なった。東湖の父親は古着屋だ。身分に関係ない人材登用こそ、幕末の動乱期を藩が生き抜くのに必要な、能力活用法だったのだろう。

明治時代になると、新政府の大久保利通から方谷のもとに大蔵大臣就任の要請がたびたびあったが断わり続けた。1874年には岡山藩からの要請で日本最古の庶民学校閑谷学校を再興。生涯を人材育成に注力した。育てた弟子は全国に1000人以上。陽明学者でもある方谷の意思を継ぐ弟子として、のちに二松学舎大学を創立する三島中洲がいるが、中洲と親交の深かった“日本資本主義の父”渋沢栄一も方谷の影響を強く受けているという。

幕末動乱期の山田方谷の知恵。現代の企業再生、日本再生へのヒントにならないだろうか。

【参考資料】
童門冬二『山田方谷 河井継之助が学んだ藩政改革の師』(学陽書房)


掲載日:2009年6月 8日

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