
『ネイルアートギャラリー ティアラS店』の店長を東条さくらが務めるようになってから、早1年が経過した。さくらとスタッフによるさまざまな取組みのかいもあって、早々に赤字経営から脱却し、売上は順調に推移していた。
ところが、ここ2〜3ヵ月のS店の売上は、横ばい状態。需要に季節変動はあるものの、ここ1年の売上は右肩上がりだったのが、ストップしてしまったのだ。とはいえ、系列店の中では売上トップを独走状態で、毎月の店長会議では大野部長をはじめ、他の店長にもねぎらいの言葉をもらうことが多い。
それでもさくらは、満足していなかった。いままで、常に過去の売上を更新することばかり考えて頑張ってきたし、これからももっと頑張れると思っていた。なぜなら、自分もスタッフも、成長し続けているからだ。客席稼働率は高いし、客単価も高い。
だが、客数はイマイチ伸び悩んでいる。特に、既存顧客のリピート率がパッとしない。この問題については、さくらは早急に手を打つ必要性を感じていた。というのも、原因に心当たりがないわけではなかったからだ。
「東条店長、お話があるのですが…」
ある日の閉店後、さくらが帰り支度をしている最中におずおずと声をかけてきたのは、入社4ヵ月目の幸田瑞穂だった。瑞穂は以前、事務職に就いていたが、27歳にして憧れのネイリストに転職したばかりだ。
彼女の話というのは、聞く前から容易に想像できる内容だった。新人のわりには、技術の腕も悪くなくセンスがあり、どんな仕事もマジメに黙々とこなす瑞穂だが、肝心の接客が不得手なのだ。そのことで、さくらはもちろんのこと他のスタッフも、瑞穂にいろいろとアドバイスやフォローをしている。だが、彼女は頑張ろうとすればするほど、空回りしてしまう。さくらとしても、そんな瑞穂にはこれ以上、どのようなアドバイスをすればいいのか迷ってしまう。瑞穂が切り出した話は、案の定だった。
「いつもご迷惑ばかりかけて、申し訳ないです。自分なりに頑張ってみたのですが、やっぱり私にネイリストは向いていないんだと思います」
さくらは、瑞穂の言葉を聞いて胸が苦しくなった。
「そんなことないですよ。だって、瑞穂さんはいつも一生懸命じゃないですか。接客なんて、慣れですよ」
自らの発言に、さくらはハッとした。瑞穂も同じように、その言葉に反応する。
「私にとって、接客は慣れるものではないんです。だって、もう4ヵ月も経ってるんですよ。ネイリストに憧れて実際になってはみたものの、私、やっぱり接客が苦手なんです」
「ちょっと待って、瑞穂さん。それって、逆にすごいことかもしれない」
さくらは、何か新しい発見をしたかのように、キラキラした目で瑞穂に言った。
「はい? 何がですか??」
瑞穂は、さっぱりわからないといった顔をして、さくらに尋ねた。
「接客は、慣れてはいけないものなのかもしれないって思ったんです。最近、うちのお店、売上がなかなか伸びないでしょう? それって、接客に問題があるのかもしれない。みんな、すごくよく頑張ってくれているけど、既存のお客様のリピートがイマイチなんです。でも、技術レベルはむしろ上がっているくらいだし、プロモーションも手を抜いていない。ただ、接客については、慣れ過ぎて雑になってしまっているように思うんです。さっき、自分で発言して気づきました。これって、瑞穂さんのおかげですね! ありがとうございます!!」
「はぁ…」
瑞穂は、さくらの勢いにあっけにとられている。
「瑞穂さん、うちのお店が次のステップへ進むには、接客を見直す必要があります。全員が瑞穂さんのように、お客様1人ひとりと丁寧に向き合わないといけないんです。かといって、苦手意識も持ってはいけない。だから、瑞穂さんとあたしたちの、ちょうど中間をとればいいんだと思います。やっぱり、このお店に瑞穂さんは必要なんです。一緒にこのお店をよくしていきましょう! あたし、そのための作戦を練ってきますね!」
「え? あ、はい…」
さくらのあまりにも楽しそうなテンションにつられた瑞穂は、落ち込んでいた気持ちが少し軽くなった。
さくらは家に帰ると、さっそく1冊の本を開いた。『話し方 お悩みカイケツ アドバイス』というタイトルで、実は瑞穂のために購入した本だった。
さくら自身は、大勢の人の前ならまだしも、ふだん人と話をすることに対しては苦手意識を持ったことがない。そこで、瑞穂のようなタイプの人向けのアドバイスを調べる参考書代わりに、購入したのだ。だが、忙しさにかまけて、まだ開いてもいなかった。スタイルは、話し方教室の講師が、66の質問に対して応えていくというもの。さくらは、その本を読み進めながら、気になるフレーズを紙に書き出していった。読み終わると、以下のメモが手元に残った。
このメモをみればみるほど、さくらは、自分自身がどれだけ多くのものを見失っていたかを思い知らされた。さくらだけではない。おそらく、瑞穂をのぞくS店の全スタッフが、同じような状況だ。もちろん、接客レベルは低くはないはずだが、目の前の1人ひとりに興味を持ち、心からの接客をしていたかといえば、まったくできていないだろう。たとえるならば、高性能なベルトコンベアだ。心なんて、あってないようなもの…。
「このことに気づけて、ホントによかった…」
さくらは、心からそう思うとともに、瑞穂への感謝の気持ちでいっぱいになった。
翌日からさくらは、一緒に入店するスタッフ1人ひとりに、今回の気づきを話した。すると、やはりみんな思い当たる節があったようで、口ぐちにこんな発言をした。
「ここのところ、忙しくてバタバタしてたから、お客様をこなすという意識になっちゃってたかも…」
「売上を上げるのが楽しくて、いかに客単価を伸ばすか、そんなことばっかり考えてたなぁ」
「このお客様はこのメニュー、って決められた施術ばかりしていて、その時々のお客様と向きあえていなかったかも…」
彼女たちのどのセリフも、自分に当てはまっている。さくらは反省しきりだった。また、瑞穂と話をしたときには、こんな発言が出た。
「私、うまく話さなきゃって、そればっかりで、目の前のお客様と向き合うことができていませんでした」
たしかに彼女の場合、他のスタッフとは違った意味で、目の前のお客様をみようとしていなかったのかもしれない。
S店では、「いま、目の前にいるお客様に興味を持つ」、「いつも1回目の接客をする」の2つを、当面のスローガンとすることにした。「心のこもった接客をする」とか、「お客様満足を追求する」とかいったありがちな言葉に比べたら、よっぽどわかりやすく、実践しやすい。本に書いてあったとおり、「恋をしたあの人のことを知りたい!」と思うように、「お客様のことを知りたい!」と思うのだ。まずは、それがスタートラインだった。
それに加え、何度もいらしている方であっても、「1回目」という気持ちで接する。そうすることで、会話は慣れ親しんだものであっても、「このお客様のことをもっと知りたい!」と思えるから不思議だ。
しだいに、どのスタッフも真剣に、目の前のお客様と向き合うようになった。そうすると、不思議なことに「共感」できるのだ。
ネイリストという職業をしていると、施術を終えたとき、お客様から「ありがとう」とか「嬉しい」といった感謝の言葉をもらうことが多い。ネイリストになりたての頃は、そんな言葉をもらうのが嬉しくて、それが大きなモチベーションとなる。だがそれにも、だんだん慣れてきてしまう。実際、さくらもそうだった。嬉しいは嬉しいが、以前のようには喜べていなかった。
しかし、この取組みを始めてからは、不思議な気持ちを経験するようになった。お客様が「嬉しい!」と笑顔で言うと、自分も同じように嬉しくなるのだ。それも、お客様に「嬉しい!」と言ってもらえたことが嬉しいわけではない。お客様の喜びがダイレクトに伝わり、お客様のネイルがキレイに仕上がったことが、自分のことのように嬉しくなるのだ。それは、ネイリストとお客様といった立場を超えた、感情の共有だった。
さくらの話を聞いて、瑞穂も同じ本を買ったようだ。彼女は、さくらにこう言った。
「お客様に対しても、自分のペースで、自分らしい言葉で、話すことにしました。うまく話せなくてもいいから、1つひとつの言葉に思いを込めることにしたんです。私、うまく話そうとすると、全然気持ちが込められなくて…。だからいまは、思いを込めることだけに集中しているんです。そうしたら、ずっとラクになりました。お客様も、すごくよく私の話を聞いてくださるようになったんです。東条店長がおっしゃっていた、“接客は慣れちゃいけない”という意味がわかった気がします」
さくらは、とても嬉しくなった。瑞穂の接客は、たどたどしさが残るものではあるが、そこにこそ好感が持てるのだ。さくらは、思った。
「今回の気づきをきっかけに、瑞穂さんも他のスタッフも、もっといいネイリストになる。私も、負けてられない。そのためには、いつ何時でも、自分の思いを込めた言葉で話せるネイリストであり続けよう」
この後、S店の売上が再び右肩上がりとなったのは、言うまでもないだろう。
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【今回の1冊】『話し方 お悩みカイケツ アドバイス』 |
| 宮北侑季[著] あさ出版 2010/11 著者は、「話し方に悩む人は、とても多い。しかし、伝わる話し方には、正しい、間違っているということはない。大切なのは、自分らしい言葉で自分のペースで話すことだ」と説く。いまさら他人に聞けない小さな心配事から大きな悩み事まで、実際にたくさんの方々から寄せられた質問に答える形式の本。元女優&話し方講師の経験を活かし、相手の心に残る話し方、伝え方、演じ方をアドバイスしている。誰でもすぐに実践できる具体的な方法論が、いくつも紹介されている。 |