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闘いつづける経営者たち


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01.懸命に生きる母の後ろ姿から学んだ“自立”と、たった一人の起業

夢中で考える余裕なんてなかった

米国の有力経済誌「フォーチュン」は毎年世界最強の女性経営者を選んでいる。その中に篠原は2000年から8年連続でランクインしている。21世紀は女性の時代と言われ、女性経営者も増えているが、成功例はまだ数少ない。そのトップランナーとして篠原は駆け続けてきた。

「人材派遣業は篠原さんにとって天職だったんですね」と社業が軌道に乗り始めたころ、よく言われた。だが心の中では「とんでもない。走り出したら止められなかっただけ」と叫ぶ。

時代も味方に引き込み、現在では時代を創ってきた女性経営者の筆頭としてさまざまな要職に就くとともに、さらに06年には東証一部への上場も果たし、今年創業35周年を迎える。石の上にも30年、ようやく「これが私の天職だったか」と思える心境に至った。

三菱重工業でのOL時代(右)。結婚、そしてわずか5ヶ月で離婚・・・。しばらくは三畳間を借りて隠れるように過ごしたという。その後、スイス、イギリスへ語学留学の道を選択する(左)

三菱重工業でのOL時代(右)。結婚、そしてわずか5ヶ月で離婚・・・。しばらくは三畳間を借りて隠れるように過ごしたという。その後、スイス、イギリスへ語学留学の道を選択する(左)

テンプスタッフの現在までの成長の陰には女性と派遣という2つのキーワードが存在する。篠原は2男3女の4番目として生を受けるが、8歳の時に父親が他界する。5人の子供たちを女手ひとつで育てた母親は当時初の助産師の資格取得者数名のうちの1人として忙しく働いた。

篠原はその自立して懸命に生きる母のうしろ姿を見て「素敵だ」と強く幼心に写ったという。

「なにかやらなきゃ・・・」
海外で知った派遣スタッフ

思い立ったら一直線、自分自身に負けるのが嫌いという性格の篠原は高校卒業後、OL生活、結婚、離婚を経て自立の道を歩み始める。

2度の留学を経て、篠原はオーストラリアのマーケティング企業へ。ここで過ごした約2年間で、派遣スタッフという働き方を知ることになる

2度の留学を経て、篠原はオーストラリアのマーケティング企業へ。ここで過ごした約2年間で、派遣スタッフという働き方を知ることになる

再度のOL生活のかたわら、好きだった英語力に磨きを入れるようになる。思い立ってスイス、イギリスに留学。その中で派遣業で成功した女性経営者の紹介本に出会う。

帰国後、今度はオーストラリアの市場調査会社へ秘書として就職。ここで派遣という形態の実態を知ることになる。

「そこの会社で目にしたのは、社員が休んでいる間は電話一本で代わりの人がやってきて、特に教えもしないのにその人の仕事をこなしていることでした。必要な時に必要な人を派遣してくれるシステム・・・それって便利でいいなって感じました」

興味を持った篠原は、たまたま知り合った派遣会社の女性経営者に、そのシステムの概要について、ランチをとりながらレクチャーを受ける。これが帰国後の起業の原石となる。

ここで2つのキーワードが合体する。「人材派遣はまだ日本にないシステムなのでチャンスかも」「女性の私でもこれなら自立できるかも」・・・・。38歳、起業の決断だった。

社名はオーストラリアで聞いたテンポラリー・スタッフ(派遣要員)を縮めた「テンプスタッフ」。手元の100万円を資本金に、「当時は起業には発起人が7人必要でしたから、菓子折りを持って親戚を回りました」

外資系企業の多かった六本木に、自宅兼用の8坪のオフィスを構えた。そこでオーストラリアで聞いた派遣システムを参考にパンフレットを作成、周辺の外資系オフィスを中心に飛び込み営業で自らを売り込むことから始まった。

行政と社会のズレ・・・ 葛藤の連続

人材派遣など、まだその言葉すら日本にはない時代。当然、生活は楽ではなかった。日銭を稼ぐため夜間は英会話教室を開いた。何かするにも考える余裕すらなく無我夢中だった1年目。大学ノートにつけていた売り上げは3,000万円ほどだった。

その後、外資系のマンパワー・ジャパンが日本上陸を果たしたこともあって、徐々に仕事量は増えていく。

オーストラリアから帰国、テンプスタッフの創業当時。日本の法律では人材派遣はまだ認可されていない事業だった。夜は看板を裏返し、英会話教室を開くことで日銭を稼ぐ日々が続いた

オーストラリアから帰国、テンプスタッフの創業当時。日本の法律では人材派遣はまだ認可されていない事業だった。夜は看板を裏返し、英会話教室を開くことで日銭を稼ぐ日々が続いた

「英語のできる英文タイピスト求む」という要望を聞けば「ジャパンタイムス」に広告を打って人材募集する。最初は外資系企業へ、そして商社など外国のビジネス事情の分かっている企業へと派遣の数は少しずつだが着実に増大していった。

だが、当時はまだ派遣業は規制がかかっていた時代。「事務処理サービス請負業」と名乗るしかなく、行政からの警告は厳しかった。

その中でのなぐさめは派遣先企業や働く人々からの感謝の言葉と、そこから発生するリピートだった。


「その頃が一番辛かった。行政からはダメだしをされるし・・・でも企業や働く人々からはまたお願いしますと声がかかる。葛藤の連続でした」

だが軌道に乗っても後の急拡大期を迎えるまで、女性のための、女性による派遣業 というポリシーは貫かれることになる。

篠原 欣子 プロフィール

1939年神奈川県横浜市に生まれる。1953年高木商業高校卒業後、三菱重工業(株)等を経て、スイス、イギリスに留学し、語学、秘書学を学ぶ。1971年オーストラリアに渡り現地のマーケティング会社、ピーエーエスエー社に社長秘書として入社。1973年同社退社後帰国し、人材派遣会社テンプスタッフ株式会社を設立、2006年東京証券取引所第1部へ上場。(社)日本人材派遣業協会理事、財務省「参与会議」メンバー等を務める。米国「フォーチュン」誌による「世界最強の女性経営者」に7年連続でランクイン。その他受賞歴多数。著書に「探そう。仕事の、歓びを。」などがある。

企業データ

テンプスタッフ株式会社

〒151-0053
東京都渋谷区代々木2-1-1 新宿マインズタワー
TEL.03(5350)1212(代表)

事業概要:一般労働者派遣事業、有料職業紹介事業、保育事業など
設立:1973年(昭和48年)5月
資本金:9億7600万円
連結売上高:単体 2,454億円(08年3月期予想)
連結従業者数:2,632名(07年9月末)


掲載日:2008年3月11日


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