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闘いつづける経営者たち


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02.キットカー、レプリカ車の製造・・・自らの再起をこれに賭けた!

クルマ社会の本場で見つけた自分の進むべき道

ミニカーからの撤退によって、クルマづくりの夢が潰えたと感じた光岡。失意の中で新年を迎え、役員会では副社長(幸子夫人)から「仏さんみたいに、おだやかな顔で座ってるだけやね」と言われるほど落胆した状態だった。

クルマづくりの現場では、いつも元気溌剌で大声をあげて社員に発破をかけていた光岡。しかしいまはその片鱗もない。そんな光岡に副社長は米国旅行を薦めた。

光岡は弟の章夫(現社長)がいるロサンゼルスへアメ車の買い付けに同行、渡米する。そこで光岡はキットカーと出会い、ミニカーで挫折したクルマづくりの夢と情熱を回復することになる・・・。

「弟の運転する車でロス市内をドライブしていた時に一台のスポーツカーが目に付きました。よく見たらポルシェ356スピードスターだった。しかし、それは本物を復刻したレプリカ車で、シャーシはフォルクスワーゲン(VW)のビートル。本物そっくりのボディはFRP製でした」(笑)

米国では、こうした往年の名車を復刻したレプリカ車の組み立てキットが売られており、クラシックカー好きの客がそれを買って来て、自分で組み立てることからキットカーと呼ばれていた。光岡には衝撃的な事実だった。

「しかも、キットカーとして復刻したレプリカ車は維持管理の利便性や経済性から、しばしば本物のクラシックカーより高額で売られているというから二重の驚きでした」

このキットカーを目撃した途端、光岡の心中に封印されていたクルマづくりの本能が甦った。光岡はただちに通訳を雇い、深夜0時発のマイアミ行き飛行便に乗り込み、キットカー工場があるフロリダに飛んだ。

クルマづくりやカービジネスの可能性を示す体内センサーに反応した時の光岡の行動は素早い。光岡はキットカーには、次のビジネスにつながる何か(サムシング)があると予感した。

フロリダでキットカー工場を視察し、ますますそれに興味を覚えた光岡。早速、ベンツSSKのレプリカをつくる組み立てキットを2セット買い込み、日本に送った。このキットカーの部品がフロリダから富山の光岡のもとに届いたのは86年3月。その日から、光岡のレプリカ車への挑戦が始まった。

悪戦苦闘の8ヶ月から学んだ改造ノウハウ

米国から帰国した光岡は、富山空港にほど近い横野工場の開発部に閉じこもった。キットカーの組み立てに集中した。

ベンツSSKのレプリカ「BUBUクラシックSSK」。左はベース車両となった初代ビートル。このクルマが光岡の改造車ビジネスのモデルの原型となった

ベンツSSKのレプリカ「BUBUクラシックSSK」。左はベース車両となった初代ビートル。このクルマが光岡の改造車ビジネスのモデルの原型となった

「大きなプラモデルの組み立てくらいに簡単に考えて米国から送らせたものの、キット部品はボルトの長さが短いなどの不具合も多く、組み立ては遅々として進みませんでしたね。やっとのことで完成したのは、その年の11月でした」

作業の合間を縫って光岡は何度も東京・品川にある東京陸運支局に通い、キットカーの車検申請に明け暮れた。

キットカーは改造車のため、車検を通すには事前に改造申請書を提出する必要がある。その申請書には改造した部分が基準値を満たしていることを証明する資料を添付しなければならない。

基準に満たない材質や構造は変更して再度、強度検討書にまとめて提出する。すると今度は違う不備を指摘され、強度計算をやり直し、強度検討書の改定版を再提出する。こんな申請書類の作成、提出の繰り返しが続いた・・・。

業を煮やした光岡は車検申請を諦めかけたこともあった。しかし、8ヶ月余の悪戦苦闘の末、光岡が組み立てたキットカーは車検が通り、晴れて公道を走行できる改造車となった。

実は、光岡には胸に秘めた次の計画があった。それは第一号のキットカーづくりを通して得たノウハウを基に、もう一台あるキットカー部品を使って光岡オリジナルのベンツSSKレプリカ車をつくり、改造車のビジネスモデルを確立することだった。

経団連記者クラブに舞い降りた幸運の女神

ベンツSSKレプリカ車「BUBUクラシックSSK」が完成したのは、87年7月。VWビートルをベースにボディは光岡がつくり、様々な部分に改良を加えた。

「BUBUクラシックSSK」。エンジンがリアの車軸の後ろにあり、ボンネットは収納スペース。随所にこだわりが見られる

「BUBUクラシックSSK」。エンジンがリアの車軸の後ろにあり、ボンネットは収納スペース。随所にこだわりが見られる

光岡は、このレプリカ車でクルマづくりに再チャレンジし、捲土重来を期した。しかし社内の役員や幹部からの十分な支援、協力は得られず、販売拠点づくりから営業・宣伝まで全て光岡自身がやらなければならなかった。

「崖っぷちにこそ、自分の行くべき道がある」を信条とする光岡。そこは持ち前の“崖っぷち精神”を発揮して、ピンチをチャンスに変える見事な離れ技を演じてみせた。

少ない予算でBUBUクラシックSSKを広報するため、光岡は東京・大手町の経団連会館にある経済記者クラブでプレス発表を行った。当初、記者の反応は冷たく、富山の一介の町工場がつくったレプリカ車への関心は薄かった。

しかし、記者の一人が発した「現物はないんですか?」の質問で流れが変わった。光岡はたまたまBUBUクラシックSSKで経団連会館に乗りつけていた。記者会見は急きょ、試乗会になり、そうなるとそれまで無関心だった記者たちも集まって来て、経団連会館脇の空き地で賑やかな試乗会が始まった。

そこへ運よくNHKのニュース取材クルーがたまたま通りかかった。記者たちの盛り上がりに関心を寄せ、その場でテレビ取材も始まるという幸運が続いた。皇居をバックに光岡に同行していた女子社員が運転する撮影が始まり、その日の夕方にはNHKニュースで放送された。

「このクルマ295万円、あなたなら買いますか」というアナウンサーのコメント。横浜に開設した販売事務所の電話は問い合わせで鳴りっぱなしになった。それから4日間での予約数は200台にも上った。光岡が製造したレプリカ車第一号は、予想を越える大ヒットで快調に走り出した。

ポルシェ356スピードスターのレプリカ

次に、光岡はポルシェのスポーツカー356スピードスターを復刻するレプリカ車の開発に乗り出し、89年2月に「BUBU356スピードスター」として発表した。

ポルシェ356は、フェルディナンド・ポルシェが作ったVWビートルを土台にして息子のフェリー・ポルシェが開発したスポーツカーの名車である。そのレプリカ車をつくることは、ポルシェ親子の二代にわたるクルマづくりをベンチマークできる絶好の機会でもあった。

それだけに、光岡は「ビートルのフレームを使って356をつくることは、ポルシェ博士と同じ仕事をすることを意味する」として、開発チームに檄を飛ばした。

356レプリカ車の開発では、三次元の複雑な曲面構成のボディを造形するボディ制作に始まり、ドアのヒンジやフロントガラスをはめ込むためのウィンドサッシなど細部にわたって作り込む高度な複製・改造技術が要求された。

しかし苦労して開発したBUBU356だったが、発表後の売れ行きはいまひとつ。注文台数は100台余り。やむなく製造を打ち切った。

ポルシェ356のレプリカ「BUBU356スピードスター」。外観はクラシックカーでも、ベースはビートルなのでメンテナンス性も高い

ポルシェ356のレプリカ「BUBU356スピードスター」。外観はクラシックカーでも、ベースはビートルなのでメンテナンス性も高い

「当時、ポルシェ356のユーザー層は本物志向の30〜40代が多く、レプリカを受け入れる素地ができていなかったんだと思います」

しかし、光岡はレプリカ車とはいえ、完成度の高いクルマをつくった充実感と開発を通じて得たノウハウに満足していた。そして356の発表が一段落すると、さらに難度の高い改造車づくりに挑んでいった。90年5月に完成、発表したオリジナルカー「ラ・セード」の開発である。


改造から製造へ−フレームからのクルマづくりへ

「ラ・セード」は、米国の改造車「ティファニー」(ベースはフォード社のマーキュリー・クルーガー)を参考にして、光岡が独自にデザインした改造車。ベース車輌は日産シルビアQ’s。改造車ではあるが、完全な光岡自動車製のオリジナルカーだった。

「「ラ・セード」の開発では、ベースになる日産シルビアQ’sのボディがフレームのないモノコック構造のため、ボディを切断して900mm延長する改造に苦労を強いられました」

モノコック構造のボティを切断、延長した場合、強度計算が複雑になった。大型コンピュータを持たない光岡は他の方法を模索した。


初めてフレームから独自に開発した「ラ・セード」。ここから改造から製造へ光岡自動車の転換が始まる

初めてフレームから独自に開発した「ラ・セード」。ここから改造から製造へ光岡自動車の転換が始まる

「そこで新たに梯子状のフレームを作り、その上に切断したモノコック・ボディを溶接する方法を編み出しました」

改造車検ではモノコック・ボディの補強材を採用した改造車として申請が受理された。しかし、フレームを一から作ってしまえば、もはや改造とは呼べない。そのような解釈もできる改造車が「ラ・セード」であった。

ラ・セードは00年に100台限定、525万円という価格でファイナルモデルも発売されている。S15の日産シルビアをベースとし、10年振りにモデルチェンジ。したものだ。なお初代は4日間で500台を完売している。

そして、この試行錯誤の末に生まれた“コロンブスの卵”が「フレームから作れば、全部自分たちで設計製造したクルマができる」という発想を光岡にもたらす。光岡は「ラ・セード」の開発を契機に、『改造から製造へ』とクルマづくりのハンドルを大きく切ることになる。

光岡 進プロフィール

1939年、富山県生まれ。県立富山工業高等学校を卒業後、国産車ディーラー(富山日産自動車と富山日野自動車)で新車営業を担当。1968年、クルマの板金塗装と修理サービスを手掛ける光岡自動車工業を創業し、1970年にはカーショップ光岡自動車を立ち上げ中古車事業にも乗り出す。1979年、2つの会社を統合、株式会社光岡自動車として全国展開に乗り出す。直後、中古車オークション会場で偶然見つけたイタリア製ミニカー(マイクロカー)に衝撃を受け、同車の輸入販売事業を手掛けようになる。1982年、50ccエンジンを搭載して自動二輪免許・原付免許で運転が可能なゼロハンカー「BUBUシャトル50」を発売、自社オリジナルカーの製造販売をスタート。以降、独創的な発想と名車のレプリカ製造という改造車事業でコアなユーザー層の獲得に成功。1996年、日本で10番目の乗用車メーカーとして認可。1998年に組み立て式マイクロカー(キットカー)、2006年にはスーパーカー「大蛇(オロチ)」を発表。

企業データ

株式会社光岡自動車

〒939-8212
富山県富山市掛尾町508番地の3
TEL.076-494-1500(代表)

事業概要:自動車製造・開発、輸入、中古車事業
設立:1979年(昭和54年)11月
資本金:2億2,700万円
売上高:339億円(07年9月期グループ実績)
従業者数:595名(08年2月1日現在)


掲載日:2008年6月 3日


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